1.国衆と歩く鎌倉時代の北九州

鎌倉

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8.『麻生文書』1号の時代

建長元年北条時頼袖判下文

9.『麻生文書』2号の時代

文永元年某地頭代職安堵状

壇ノ浦合戦の前月、九州は源範頼に攻撃され、平家の与党は次々に源氏の軍門に降ります。最後まで平家を支えた菊池系の山鹿秀遠も壇ノ浦での敗戦で没落し、遠賀郡・鞍手郡の数々の庄園は、後白河法皇により平家没官領として源頼朝に与えられました。頼朝の代官に任じられた「一品房昌寛」は、「宇都宮家政」に山鹿庄地頭代職を譲ります。地頭職も頼朝から北条政子・義時に移り、やがて山鹿庄は得宗領となりました。宇都宮系の山鹿氏(麻生氏はその庶家)は得宗被官として元寇や幕府滅亡のなかで苦闘します。《以上は通説です》

山鹿・麻生氏とはどのような人々だったのでしょうか。上記の通説は本当でしょうか。

残念ながら山鹿・麻生氏の鎌倉時代の古文書は3通だけ。それも土地の安堵状しか残っていませんので、具体的なことはわかりません。これからお話しすることも状況証拠からの推測に過ぎません。

よろしければ読者の皆様も、800年前の北九州にどんな人がいたのか、何が起こったのか、いっしょにお考えいただけたら幸いです。

1.プロローグ 壇ノ浦の戦い

 九州の中世は壇ノ浦での平家の滅亡から始まると言っていいでしょう。当時の北部九州の状況を概論しました。あわせてこのホームページを立ち上げた理由も述べさせていただきました。

2、随筆 芦屋浦の戦い

 元暦2年1月26日、源範頼は臼杵・緒方の兵船の供給を受けて周防を船出しました。豊後に到着後、平家方の重囲をくぐり抜け、2月1日に芦屋浦で原田氏の軍勢を打ち破り、2月2日に宇佐宮に下着します。義経を上回る範頼の「神速」。北九州でいったい何がおこったのでしょうか。

3.「降参します、命ばかりは…それだけ?」  

ー平家滅亡後の北九州の状況 -

中世室町期には「降参半分の法」という武家の習慣がありました。平家滅亡後の平氏与党処分に、その萌芽の可能性を探ります。

4.随筆 「一品房昌寛」

 宇都宮系山鹿(麻生)氏は、源頼朝の側近「一品房昌寛」の子である「宇都宮家政」に始まるとされています。

「一品房昌寛」とは何者なのでしょうか。

「吾妻鏡」から「昌寛」の人物像をたどります。

5.宇都宮系山鹿家政は宇都宮氏か?  

  宇都宮系山鹿氏は「宇都宮家政」が関東から遠賀郡山鹿に移り住んだことに始まるとされています。

「家政」は本当に宇都宮氏なのでしょうか。豊前の宇都宮氏とはどんな関係にあったのでしょうか。『尊卑分脈』や『麻生文書「竪系図」』を調べてみました。(写真は山鹿城)

6.鎌倉時代の山鹿氏の不振について

 遠賀川と洞海湾の二大水路をおさえ、得宗被官として隆盛を誇るはずだった宇都宮系山鹿氏がまさかの失速。 原因は隣の垣崎庄の地頭としてやってきた越中(野本)氏の存在だった?

格下土豪の悲哀をアンケート型式でなぞります。

7.園田城・園田浦城の謎 ー中世の海退現象ー

八幡西区永犬丸(北筑1丁目・2丁目)にあった園田城・園田浦城は、北・南・本郭からなる巨大城郭とするには、山鹿・麻生氏の勢力から見て大きすぎるかと思います。けれど、理由もなくすぐ隣の丘に引っ越すのはコスパが悪いし、いずれかを陣城(城攻めのための臨時の城)とするには距離が近すぎます(200m)。

あなたはこの矛盾をどう解きますか?

8.『麻生文書』1号の時代

建長元年(1249) 北条時頼袖判下文

鎌倉時代の宇都宮系山鹿氏の記録は『麻生文書』1・2・3号の3通しか存在しません。どれも地頭代職の安堵状ですが、下し置かれた年の出来事を調べてみると、北条氏と麻生氏をめぐる遠賀郡の状況が見えてきます。ちょっとのぞいてみませんか?

9.『麻生文書』2号の時代

文永元年(1264)某地頭代職安堵状

 1号文書から15年、若武者だった山鹿資時も立派なオジサンになりました。彼は地頭代職をどんな思いで務めていたでしょうか。主の北条得宗家と気候から想像してみましょう。

10.「麻生文書」3号の時代

 ー 二月騒動と山鹿氏 ー

 「北条時宗」が執権に就任した。得宗家に対抗する一門の「名越時章」が鎌倉で、異母兄の北条時輔が京都で粛清された。北条氏の被官である筑前国山鹿氏は、この騒動でどのような影響を受けたのだろうか。          合わせて「麻生文書」1・2・3号から読み取れる山鹿資時の一生を振り返る。

11.山鹿資氏およびその子孫たちにとっての元寇

 父の急死の後、北条氏から家督を安堵された少年「資氏」。彼の前途を待っていたのは、国難「元寇」だった。蒙古襲来絵詞とコラボしながら、資氏の前半生を想像する。

12. 山鹿(麻生)資時 

ー ある得宗被官の人生 ー

北九州に生まれた1人の「得宗被官」は、元寇直前、どのように生き、死んでいったのでしょうか。上述の「麻生文書1~3号」をコンパクトにまとめました

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