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壇ノ浦合戦の前月、九州は源範頼に攻撃され、平家の与党は次々に源氏の軍門に降ります。最後まで平家を支えた菊池系の山鹿秀遠も壇ノ浦での敗戦で没落し、遠賀郡・鞍手郡の数々の庄園は、後白河法皇により平家没官領として源頼朝に与えられました。頼朝の代官に任じられた「一品房昌寛」は、「宇都宮家政」に山鹿庄地頭代職を譲ります。地頭職も頼朝から北条政子・義時に移り、やがて山鹿庄は得宗領となりました。宇都宮系の山鹿氏(麻生氏はその庶家)は得宗被官として元寇や幕府滅亡のなかで苦闘します。《以上は通説です》
山鹿・麻生氏とはどのような人々だったのでしょうか。上記の通説は本当でしょうか。
残念ながら山鹿・麻生氏の鎌倉時代の古文書は3通だけ。それも土地の安堵状しか残っていませんので、具体的なことはわかりません。これからお話しすることも状況証拠からの推測に過ぎません。
よろしければ読者の皆様も、800年前の北九州にどんな人がいたのか、何が起こったのか、いっしょにお考えいただけたら幸いです。

九州の中世は壇ノ浦での平家の滅亡から始まると言っていいでしょう。当時の北部九州の状況を概論しました。あわせてこのホームページを立ち上げた理由も述べさせていただきました。

元暦2年1月26日、源範頼は臼杵・緒方の兵船の供給を受けて周防を船出しました。豊後に到着後、平家方の重囲をくぐり抜け、2月1日に芦屋浦で原田氏の軍勢を打ち破り、2月2日に宇佐宮に下着します。義経を上回る範頼の「神速」。北九州でいったい何がおこったのでしょうか。


宇都宮系山鹿(麻生)氏は、源頼朝の側近「一品房昌寛」の子である「宇都宮家政」に始まるとされています。
「一品房昌寛」とは何者なのでしょうか。
「吾妻鏡」から「昌寛」の人物像をたどります。

宇都宮系山鹿氏は「宇都宮家政」が関東から遠賀郡山鹿に移り住んだことに始まるとされています。
「家政」は本当に宇都宮氏なのでしょうか。豊前の宇都宮氏とはどんな関係にあったのでしょうか。『尊卑分脈』や『麻生文書「竪系図」』を調べてみました。(写真は山鹿城)

遠賀川と洞海湾の二大水路をおさえ、得宗被官として隆盛を誇るはずだった宇都宮系山鹿氏がまさかの失速。 原因は隣の垣崎庄の地頭としてやってきた越中(野本)氏の存在だった?
格下土豪の悲哀をアンケート型式でなぞります。

八幡西区永犬丸(北筑1丁目・2丁目)にあった園田城・園田浦城は、北・南・本郭からなる巨大城郭とするには、山鹿・麻生氏の勢力から見て大きすぎるかと思います。けれど、理由もなくすぐ隣の丘に引っ越すのはコスパが悪いし、いずれかを陣城(城攻めのための臨時の城)とするには距離が近すぎます(200m)。
あなたはこの矛盾をどう解きますか?

建長元年(1249) 北条時頼袖判下文
鎌倉時代の宇都宮系山鹿氏の記録は『麻生文書』1・2・3号の3通しか存在しません。どれも地頭代職の安堵状ですが、下し置かれた年の出来事を調べてみると、北条氏と麻生氏をめぐる遠賀郡の状況が見えてきます。ちょっとのぞいてみませんか?

文永元年(1264)某地頭代職安堵状
1号文書から15年、若武者だった山鹿資時も立派なオジサンになりました。彼は地頭代職をどんな思いで務めていたでしょうか。主の北条得宗家と気候から想像してみましょう。

ー 二月騒動と山鹿氏 ー
「北条時宗」が執権に就任した。得宗家に対抗する一門の「名越時章」が鎌倉で、異母兄の北条時輔が京都で粛清された。北条氏の被官である筑前国山鹿氏は、この騒動でどのような影響を受けたのだろうか。 合わせて「麻生文書」1・2・3号から読み取れる山鹿資時の一生を振り返る。

父の急死の後、北条氏から家督を安堵された少年「資氏」。彼の前途を待っていたのは、国難「元寇」だった。蒙古襲来絵詞とコラボしながら、資氏の前半生を想像する。


-山鹿(麻生)氏関連の記述から見た「鎮西要誌(要略)」と「北肥戦誌」の信頼性-
北部九州の歴史を述べるとき、多くの人は「歴代鎮西要誌(要略)」「北肥戦誌(九州治乱記)」を軸にして話を組み立てます。しかし、両書は江戸中期に成立したいわゆる「戦記」。その記事は信頼できるのでしょうか?筑前山鹿氏関連の記述限定で突っ込みを入れてみました。

14.鎌倉時代の山鹿(麻生)氏まとめ1【前編】郷土に伝わる山鹿(麻生)氏の通説を批判してみたー
鎌倉時代の旧遠賀郡を代表する国衆として地元であつく語られてきた宇都宮系山鹿氏。しかし、その実像は史料の少なさと近世以降の潤色ゆえに謎が多く、真偽とりまぜて顕彰されてきたきらいがある。この項ではそんな郷土の通説を可能な限り最近の研究をもとに批判するものである。

3通の安堵状以外全く記録を残さなかった鎌倉時代の宇都宮系山鹿氏。
その家格と活動を「麻生文書1号」に記された「兵衛尉」の一語から読み解きます。

宇都宮系山鹿氏系図のなかでは、最も信頼できるとされている「尊卑分脈」系図を、平安末の宇都宮氏の祖「宗円」から南北朝後期の「義助」までノーカットで掲載しました。
※ 印刷する時は、ワードなどにコピペしてA4縦でプリントアウトすると大きくはっきり見えます
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