平家与党の処分
文治元年(1185)3月24日、長門国壇ノ浦において平家は滅亡した。安徳天皇・二位尼はじめ多くの公卿・武将が入水し、三種の神器の一つ「草薙剣」も失われた。すでに大宰府は頼朝の弟範頼が制圧し、大宰少弐原田種直、豊前守板井種遠、宇佐大宮司公通、宗像大宮司氏実、太宰府天満宮安楽寺執行安能も軍門に降った。
源頼朝は、鎮西の平家与党、原田種直・板井種遠・山鹿秀遠らに対しては、「与党張本の輩」として処分は厳しかった。だが、その一族でたとえ有力な在地領主であっても、大宰権少弐原田種直の命令で動員された大宰府や在庁官人たちに対しては、兵士与同は追求せずに所領を安堵して鎌倉御家人とする方策を採った。言うまでもなく混乱・抵抗を避けるのが目的であるが、あるいは「降参半分の法」という武士の「掟」が発動していた可能性もある。
「降参半分の法」とは
「降参半分の法」とは、降参した場合、領地を半分没収されるが、命は助け、残りの半分の領地はそのまま運営させるという武士の慣習である。「半分」といいながら、1/3の没収ですむこともしばしばだった。通常、南北朝時代からの武家慣習とされるが、九州における源平合戦の戦後処理においても族滅した氏族は少なく、原田氏・菊池氏などは御家人として、元寇や南北朝内乱、室町、戦国期に至るまで積極的な活動が見受けられる。
※上図で同族は同色。九州出身の氏族は黒枠 、関東下向の御家人は赤枠
例えば、遠賀郡山鹿庄内の勝木(香月)庄司秀則は、山鹿庄司秀遠の有力な一族(「香月家記」では山鹿秀遠の叔父)であったとされ、梶原景時に降伏して赦免され、本領勝木(香月)郷を安堵されたとある(「吾妻鏡」)。鎌倉前期に活動が確認される粥田庄や垣崎庄の開田(頴田・粥田)一族(開田・頓野・底井野氏等)は粥田経遠の子孫と伝わり、山鹿秀遠の一族がこの地に残っていたことが推察される。両者は山鹿秀遠の縁者であり、山鹿一族の降参によって所領が一部安堵され、領主としての地位を保つことができたと考えられる。
宇都宮氏の鎮西下向
文治元年(1185)2月、芦屋浦の戦いの後、源範頼は大宰府を接収したが寺社・荘園領主のクレームにあってすぐに鎌倉に呼び返され、7月、中原久経・近藤国平が「鎌倉殿御使」として九州に下向した。中原久経は源義朝に仕え、頼朝には流人時代から従っていた。近藤国平も石橋山合戦から随身しており、二人への信頼は厚かった。両名とも文官であるが、畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たった実績を買われたものであろう。
さらに同年末には鎮西奉行として天野遠景が下向する。遠景も頼朝挙兵以来の伊豆国御家人で、大宰府府官と連署で鎌倉殿下文を施行・御家人の地頭職安堵・相論裁許など、建久4-6年(1193-1195)まで8年以上大宰府を掌握した。だが、武断的統治に対する京都からの抗議・非難が相次ぎ解任された。
この時期最初期に北部九州に下向していた東国武士団は宇都宮氏である。
文治3年(1187)9月、宇都宮信房が天野遠景とともに貴海島を追討すべく鎮西に下向してきたこと、さらに、翌年5月17日には貴賀井島で合戦を終え、平氏残党を帰服させた記事が「吾妻鏡」に見える。
また、文治年間(1185-1190)に筑前国の遠賀川沿岸に「山鹿左衛門尉家長」なる人物が粥田庄に入っていたことがわかる(金剛三昧院文書174)。「山鹿家長」は名乗りから宇都宮系山鹿氏と思われ、北部九州(豊前板井種遠跡・筑前山鹿秀遠跡)は、一品房昌寛を通して下野宇都宮氏に与えられたのではないか」(「平氏与党人山鹿兵藤次秀遠跡の処分について」浅野真一郎)とする説もある。
※ 宇都宮氏については、宇都宮信房は中原氏を出自と称するのに対し、宇都宮(山鹿)家政は藤原氏を名のっている。このため両氏を別氏族とする説、宇都宮宗円を共通の祖とする大氏族あるいは連合氏族とする説などがあり、にわかには断定できない。また筑前・豊前両宇都宮氏の交流も史料では確認できず判断は難しい。『尊卑分脈』では、家政は高階氏で、宇都宮氏の猶子であるとの註記がある。後考を待ちたい。
【尊卑分脈:山鹿系図】
鎮西奉行と少弐・大友・島津
天野遠景の解任後、鎮西奉行に任命されたのは、武藤資頼(後の少弐氏)である。同じころ中原親能(後の大友氏)も鎮西奉行として在任していたとされる。また、惟宗忠久(後の島津氏)も島津庄惣地頭に任命されている。ただし、大友・島津両氏が鎮西に赴任するのは元寇の頃で、九州においては一族・家人が守護代や地頭代を務めていた。少弐氏は太宰府近辺に居住したが、後に三前二島(筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬)と呼ばれる広大な勢力圏に所領が散在しており、やはり一族・家人が代官として派遣されていた。
なお、この3人は幕府草創の功臣と言うよりも有能な行政官というべき人々で、武藤資頼は、一ノ谷の戦いまでは平家方で、梶原景時を頼って許され、源頼家の元服の式では有職故実の指導を務めた。中原親能は頼朝の文官側近であり大江広元の兄である。惟宗忠久は近衛家の家司で貴族・歌人の惟宗広言の子で、後に頼朝の側近を務める。鎌倉幕府において成功するには武力だけでなく、京都・鎌倉双方との太いパイプと計数(荘園の管理事務)及び「雅(みやび)」に明るいことが必要不可欠であった。
後に、少弐氏は三前二島、大友氏は三後(豊後・筑後・肥後)、島津氏は奥三国(薩摩・大隅・日向)の守護に任命され、中世九州の原型を作ることになる。
山鹿秀遠跡の処分
幕府は平家没官領や謀反人跡として接収した所領を、とりあえず関東御領として政所の管轄に入れ、その中から平氏追討の恩賞として地頭を補任した。さらに旧来の地頭と新たに任命された地頭を管掌する者として、関東の有力御家人を惣地頭として派遣した。北部九州では、筑前国の原田種直跡に武藤(少弐)資頼、豊前国の板井種遠跡に宇都宮信房が任命されている。
山鹿秀遠跡はまず関東御領として頼朝領とされ、幕府政所が年貢公事を徴収したと思われる。没後は妻の北条政子に譲られ、寄進により金剛三昧院領とされたこともあるが、やがて弟の北条義時に譲られ、鎌倉期を通じて得宗領(時には北条庶家領となったこともある)として北条氏に相伝されている。
建久年間(1190-1199)になると九州への関東御家人の西遷も徐々に加速し、有力御家人の庶家や従者で鎮西の在地領主になる者も多かった。もとから九州に在住していた人々も、小地頭として御家人になる者、関東御家人の被官となる者、預所として貴族・寺社の荘園を管理する者、得宗被官として北条氏の庇護を受ける者など、さまざまな生き方がそこにはあった。
まとめ 「降参半分」の背景
「武藤(少弐)氏は原田種直跡三千七百町(近世の六万石相当)を与えられ」などの記述をよく目にするが、原田氏も武藤氏も、戦国・近世大名のように三千七百町を一円支配して、収入や軍事力を得ていたわけではない。さらにいえば、土地を与えられたのではなく、領家や本家(本所)の年貢の取り立てや運送の代行をしてその手間賃を「職」として与えられただけで、その収入の割合は年貢全体の10分の1以下である(新補率法)。
たとえ守護や惣地頭として入部したとしても、そこには十数人の地頭が半独立の状態で別々の領家・本家等に勤仕しており、守護や惣地頭はその地頭の一人として、パッチワーク状の任地に赴くが、反別五升の加徴米(兵糧確保のため)と若干の給田を与えられるだけで、他の地頭と圧倒的な力の差があるわけではない。言わば名誉職であり、そのため在地支配をめぐって、惣地頭と(小)地頭との間には対立・軋轢・紛争が起こりがちであったことを、念のため確認しておきたい。また、一般的に惣地頭は有力なるがゆえに鎌倉や京都に在住することが多く、地頭代に所領を横領される(年貢が上がってこない)ことも多かった。
このような不安定な情況で地頭を務めるには、信頼できる地頭代を確保することが必須になるが、識字率が低いこの時代,そのような人材は希少で、鎌倉武士の亀鑑と言われた畠山重忠でさえ「よい代官が雇えないなら新恩地などもらうべきではない」(『吾妻鏡』文治3年10月4日条)と嘆いたほどである。平家没官領はじめ多くの新たな領地を得た幕府方にとって地頭代の不足は深刻な問題であったと思われる。
そのうえ源頼朝以来の幕府首脳は領家・本所への年貢完納には神経質であったから、闕所を増やして新しい地頭を多く任命するより、年貢を完納する意志さえあればかつての平家方の旧地頭を引き続き採用した方がより合理的と判断したであろう。もとより小戦役後の処分であれば闕所地も少なく代官の確保も容易だから問題化することはないが、大規模戦役の場合は当然闕所地が多くなるので、敵方を赦して戦後の領地経営に当たらせる割合が多くなる。それが「降参半分の法」として表面化してくるのではないか。南北朝の内乱期に生じたとされる「降参半分の法」だが、源平合戦、承久の乱など大規模な戦いの戦後処理に似たような事象が現れるのは(香月氏の盛衰が好例である)、敗者への温情や美意識、騒乱の終結を急ぐだけでなく、勝者側の領地経営の都合もあったと考えられる。
だが、合理的であることが必ずしも成功を約束するとは限らない。壇の浦の戦いの後、一本房昌寛は遠賀川流域の諸荘園のおそらく惣地頭として、山鹿秀遠跡である頼朝の関東御領を監督する名誉を得た。しかし、頼朝側近としての職務が多忙で、任地に下向する暇はなかった。代わって年貢を納めるはずの山鹿秀遠の一族は必ずしも体制に従順とは言えず、開田(粥田)氏は宇佐宮造営を務めなかったために罷免され、香月氏は梶原景時との連座や承久の乱の罪で力を失う。結局秀遠跡を管理したのは宇都宮系山鹿氏であったろう。やがて昌寛の一族は没落したと思われ(昌寛の娘は源頼家の側室で、頼家横死後、承久の乱で朝廷側の主将となった三浦胤義に再嫁する)、麻生系図によれば昌寛の所領は宇都宮系山鹿氏のものになるのだが、それが麻生系図の註記が示すように養子縁組による譲渡だったのか、それとも闕所地として恩賞に付されたか、あるいは押領であったのかは明確ではない。
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