江戸時代の戦記物しか史料がない!どうする? 

鎌倉記事

-山鹿(麻生)氏関連の記述から見た「鎮西要誌(要略)」と「北肥戦誌」の信頼性-

1.【はじめに】ー 鎌倉末の山鹿(麻生)氏の記録は2つの戦記だけ ー

麻生氏の勉強を始めて2年余、「麻生をするのは馬鹿か研究者」の言葉の通り、勉強は遅々として進まず、いまだに鎌倉時代をさまよっている。鎌倉時代の山鹿(麻生)氏に関する古文書は、3通の安堵状と後世に作られた系図が残るだけで、その実像を伝える史料はほとんどないと言っていい。現在、「海の勢力」「北条氏被官」「鎮西探題」をキーワードとして、論文等をたよりに山鹿氏像を構築しているのだが、なかなか山鹿氏の人々をイメージできず、禁じ手としていた江戸中期の戦記「鎮西要誌」「北肥戦誌」に手を伸ばしそうになっている。

「絶対信じないぞ!」と己を戒めるのだが、ことのほか自分に甘い私のことだ。近いうちに両書の擒となって講談まがいの原稿を書きそうな気がする。

 「何をそんなにこだわっているの?」という方もおられるかと思うので、とりあえず「鎮西要誌」と「北肥戦誌」について簡単に紹介をしよう

2.【歴代鎮西志】(付:歴代鎮西要略) 青潮社 平成4年

 

編年体。佐賀の龍造寺・鍋島の軍功を主題として、神代から元禄元年までの肥前を中心に九州の歴史を記す。成立は元禄年間(1716~1736)と思われ、佐賀(多久)藩士犬塚六郎兵衛盛純が藩主に献上したとされる。

「歴代鎮西要略」と構成・内容が酷似しており、両書には強い関係性があると考えられる。なお、「鎮西志」が「鎮西要略」を参考に加筆されたか、逆に「鎮西志」を要約して「鎮西要略」が誕生したかは研究者によって意見が分かれる。

  「鎮西志」は目録と本文の食い違いや誤字・誤記が多いものの、平成4年に青潮社から本文2巻および総索引1巻が再刊行され、かなり検索しやすい史料となった。ただし、訓読文〈返り点がついた漢文〉、しかも写真版であるため私のような素人にはいささか読みづらいのが難点である。

 「鎮西要略」は誤字・誤記が少なく、今では失われた古文書の引用も少なからずあるので研究者は鎮西要略を用いることが多いのだが、同じ写真版の「要誌」が楷書体であるのに対し  「要略」は筆書き感満載でくずし字まじり!しかも索引がないので、必要とする箇所の検索にとてつもなく時間がかかる。己の力のなさが原因とは言え、私のような素人にはいささか使いにくい。

3.【北肥戦誌】(九州治乱記)   青潮社 平成6年

編年体。中世における九州の合戦や事件を、肥前国を中心に編纂したものであるが、少弐・大友・島津・菊池・龍造寺・鍋島その他諸家の由来と活動を詳細に記述している。文永・弘安のいわゆる元寇から豊臣秀吉の天下統一まで(異本によっては島津征伐から朝鮮出兵までを補足)を記す。九州各地の古跡・寺社の縁起なども随所に附記されていて興味深い。佐賀藩士馬渡俊継が編著し、正徳年間(1711~1716)に藩主に献上されたと推測されている(高野和人)。

 活字本で、書き下し文、さらに人名索引・城郭索引・年代表が巻末に添えられ、たいへん使いやすい。また筆者は、各章段末に成立当時に存在した異説を紹介しており、調査や解釈の公平性を確保しようとする姿勢が垣間見られる。

 しかしながら「沖田縄合戦」の章段などを「歴代鎮西志」と比較すると、藩主鍋島家への忖度が過ぎる印象も否めない(逆に「鎮西志」を「御用史」という人もいるので、所詮、主観の話ではあるが…)。

 両書とも肥前が九州の中心であるとする佐賀史観の影響はあるものの、他藩のように「自藩の歴史だけを記す」狭小さから免れており、おかげで筑前国の事績を両書によって調査することも可能である(ただし、佐賀が忙しいときは、他県の事件は無視されがちではある)。

 この便利さゆえ、以前は九州内の自治体史の根本史料として大いに活用されていたが、最近は「戦記物だから史料としての信頼性に欠ける」とされ、平成以後は研究者の利用は激減した感がある。もっとも、観光地のパンフレットや看板、郷土史家の講話などには今なお現役として活躍中である。

 私も以上のような理由でこれまでのレポートでは「鎮西要志」「北肥戦誌」の利用を極力避けてきたのだが、史料なしでは山鹿(麻生)氏について何も書けないので、可能な限り批判を加えながら両書の鎌倉末の記事を紹介したい(詳細は今後レポートする予定)。

 ※【  】のタイトルは著者(河島)がつけたもの。

4.【宇都宮系山鹿氏の入部】 1193-1197    歴代鎮西志    P405  

【本文】

 宇都宮左兵衛尉家政(朝綱の二男なり)、筑前国の内芦屋山鹿之庄賜う。これ、奥州の勲功の賞なりと云々。山鹿庄は平家没官領なり。家政、これを賜りて山鹿氏を称す。また子孫、麻生と称す。末代に至りて蓁々(多い)たり。

【解説】
  家政は実在の人物と思われるが信頼できる史料にはまったく登場しない。奥州の勲功(奥州合戦)も真偽不明である。

  ただし、『麻生文書』143号には「一品房は、頼朝大将の御祈師為るに依り、平家追討時に、山鹿兵藤次秀遠跡、筑前国山鹿庄を頼朝より下し給う」と見える。
『吾妻鏡』文治四(1188)年五月十七日条にも「次に鎮西の庄は、成勝寺執行昌寛眼代、妨げを成すの間、昌寛の返状を召して下し賜うと雖も、なお以て静泌せず。濫行を企つるの趣、訴え申すと云々。」とあり、山鹿庄を賜ったのは一品房昌寛であることがわかる。
  『吾妻鏡』が述べる「昌寛眼代」たる人物を考える史料としては、『粥田庄々務頼順注進状案』に、「筑前国粥田庄の事 文治□□□年は成勝寺領に候う裁、(中略)其時分ハ山鹿左衛門尉家長拘ると云々、(後略)」とあり、文治年間(1185-1190)には「山鹿左衛門尉家長」が粥田荘に入っていたことが窺われる。
 この家長の出自であるが、没官の実地状況、また名前から考えると、山鹿兵藤次秀遠らの旧山鹿一族であるとは思えない。 また、「家長」の「長」は「まさ」とも読め(広漢和辞典下P1047「長」名乗の項)、「山鹿家長」は「山鹿家政」なのかもしれない。
 であれば山鹿家政の粥田庄赴任は「奥州合戦(文治5年5月~9月)」以前である可能性が高く、「鎮西志」の「奥州の勲功」の記述は信頼性に乏しいと言える(『尊卑分脈』では家政の孫に家長がいるが、年代が合わない)。  
尊卑分幕』 山鹿(麻生)氏系図

5.【文永の役】 1274   歴代鎮西志       P441       

本文】

 太宰少弐経資、大友頼康・菊池・原田・松浦党・臼杵・戸次・紀伊・山鹿・小玉党・草野・於保・高木・龍造寺・高來・有馬純黨・大村・西郷・深堀等及び神職・社務・山徒・防人すべてその兵十万余騎、壱岐・松浦・今津・博多・姪浜所々に至りて蒙古数百万の兵と相戦う。

【解説】
目につくのは日本側「十万余騎」、蒙古側「数百万」との兵数の誇張だが、それよりも「神職・社務・山徒・防人」が気になる。 「本所一円地住人」が戦いに動員されるのは、実質的には弘安の役から(あるいは以降)なので、文永の役の記述としては史実にそぐわない。

6.【石築地役】 1276      北肥戦誌          P6     

【本文】

太宰少弐資能、兼ねて大宰府にありてこの事を奉行す。ここによりて鎮西の輩、各々人夫を具して博多の津に向かい、請け取りの役所を定め、彼の石築地を普請す。その輩には、筑前に原田孫次郎種遠・秋月左衛門尉種頼・田淵次郎・宗像大宮司・千手・黒河・山鹿・麻生・少弐の一族は言うに及ばず、(後略)

【解説】
 筑前の人々が守護少弐氏のもとで石築地役を務めたのは確かだが、同時に異国征伐(後に中止)が発令されており、当初は異国征伐を務める者は石築地役を免除されていた。
 本文にある原田・宗像・山鹿・麻生・少弐の一族など、所領が海に面していた人々はまず異国征伐に動員され、中止の後に遅れて石築地築造に参加した可能性が高い。著者の馬渡氏は、この事実を知らなかったか、知っていて石築地が総動員体制で築造されたことを強調しようとしたかのいずれかであろう。

 

 上記4~6のように、史料が多く研究が進んでいる場合は、安心して文献批判し、史料にできる部分とそうできない部分を分別できるのだが、下記7~9のように史料が少ないなどの理由で研究対象とするのが難しい場合、当然のことながら研究者は沈黙しがちになり、郷土史家は通史の空隙を埋めるために戦記の記述を無批判に受け入れ、やがてローカルな定説ができあがってしまう。

7.【鎮西探題滅亡】1333    歴代鎮西志       P477          

【本文】太宰少弐妙恵、師一万をひきいて、探題の城に向かう。原田・秋月・三原・草野・味坂・神代・江上・小田・高來・国分・龍造寺・千葉・綾部等の軍吏これに従う。大友入道具鑑、師五千をひきいてこれに会す。戸次・臼杵・田原・新開・佐伯・吉弘・竹堀・紀井・長野等、これに従う。 二軍併せて一万五千、急に進みて探題の城を囲む。主客相挑み、利鏃骨を穿つ。松浦党・草野・山鹿・宗像等、探題に属して城に在り。敵に延いて戈を倒にし、卒に探題を討ちこれに克つ。

【解説】 
  かつて博多においては鎮西探題の城は姪浜(福岡市西区)にあったと信じられてきた。最近では考古学的発掘調査の結果から、櫛田社横(同博多区)が定説となった。「鎮西志」は姪浜説を踏まえたのか、少弐・大友は山城を攻めるかの如く大軍で包囲している。
  また、大友入道具鑑(貞宗)が率いた軍士の名に豊前の将である紀井・長野が交じっているのも奇妙である。当時の豊前国守護は北条氏一族の糸田貞義であったため、守護ではないが最も家格・実力が高かった宇都宮髙房が豊前衆を率いていたことがわかっており(北九州市史・田口文書)、著者の誤認が疑われる。

8.【規矩高政・山鹿政貞、帆柱城で挙兵】1334 歴代鎮西志   P481

【本文】ここに平家北条の一属上総掃部助高政(故探題英時の猶子)、豊前国規矩郡にありて帆柱嶽に城を起こしこれに拠る。長野左京亮政通、これに従いて門司城を修す。その族、柚板吉内廣貞・門司六郎種俊、兵三千で門司城を守り、山鹿筑前守政貞もまた高政にくみす。

※ 中央は帆柱山、背後は上津役方面

 弓削左兵衛・宗藤兵衛・佐杉右馬助・原源五郎・附ツケ新介等(筑前芦屋の郡士)、山鹿に徇いて帆柱の城に会す。

9.【帆柱山城落城】1334   歴代鎮西志       P482

【本文】

建武元年(1334)甲戌 鎮西は元弘四年を用うる者多し。春正月、宗像大宮司詔を被せられ、帆柱の逆徒(規矩高政)を伐つ。長野兄弟政通・貞通、豊前の兵を以て宗像を裏つしてこれを後詰す。大宮司、蔦ヶ嶽に敗れ、凶徒いよいよ蜂起す。

三月上旬、詔して、少弐・松浦・原田・秋月・宗像をして帆柱を征し、大友・菊池らをして堀口の凶徒を伐しむ。大宰の新少弐筑後の二郎頼尚、筑前肥前の兵二万を将いて豊州に発向す。大友左近将監貞載、豊後筑後の兵一万余を率いて筑後国に発向す。少弐頼尚の先登松浦党の惟党・純党の勇士数千人大いに進みて帆柱の砦数箇城を撃ち破る。頼尚手勢を進めて山鹿・宗像とともに先鋒になりて向かう。

山鹿氏麻生氏は兄弟にて不平なり。分かちて官軍に属す。この故に山鹿筑前守政貞逃亡す。少弐、帆柱に至り、大いにこれを攻む。掃部助高政、規矩に退きて、長野政通は和平を請いて王師に属く。官軍ほとんど三万ばかりあつまりて高政を攻め、遂に城を落とす。北条上総掃部助平高政、豊の規矩において殲ぼさる。

※ 規矩高政は虹山城(小倉南区蒲生)で自害したとも薩摩に逃れたとも伝えられる

【解説】
 帆柱山城における規矩(北条)高政の反乱は、『太平記』や複数の一次史料に見え(「田口文書」「堀口文書」)、北部九州において北条氏の残党を中心とした長期間の戦いがあったことは確実である。 だが、唯一詳しく記しているのは「歴代鎮西志(要略)」だけなので、文献批判も比較考証もできない(ちなみに麻生氏は山鹿氏の兄弟ではなく庶家)。
 しかし、反乱に与した長野氏・門司氏・山鹿氏らは得宗あるいは北条氏の被官であり、拠点とした帆柱山城は山鹿氏領内で、搦手は長野氏の勢力圏に隣接するなど、この記述を信じてしまいたい欲求に駆られる。ただ、反乱鎮圧に功を上げた宗像氏や裏切った麻生氏(山鹿氏の有力な庶家)も北条氏の被官であり、敵味方の差違が生じた理由を説明しないかぎり「北条氏被官だったか規矩高政に与同した」との論は、根拠としては薄弱といわざるをえない。

10.【まとめ】

 「歴代鎮西要志(要略)」「北肥戦誌」は、江戸中期成立の戦記ながら、九州の中世史を研究するうえで不可欠かつ貴重な内容をもつ。しかしながら、鎌倉末からでも成立までにはすでに300年が過ぎており、史料的制約や筆者の事実誤認、文学的修飾などから、史実とは異なる記述も少なからずあると考えられる。

 とはいえ、両書の記述抜きでは北部九州(近畿を除けばどの地方も似たようなものだと思うが)の歴史は、あまりにも閑散として寂しいものにならざるをえず、史実であることの証明ができないからとって、両書を無視するのが歴史家として正しい姿とは思えない。

 よって、他に信頼できる史料がある場合は一文一文照合することを怠らず、丹念に史実を確認する姿勢が必要になるだろう。特にこれらの戦記にしか叙述がない場合は、引用したことを明らかにし、「~と述べられている」「と記される」のように結んで、史実そのものではないことを明確にするよう留意すべきかと思う。

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