福岡県地理全誌巻之三十九 (第五大区) 遠賀郡之一
(二十六小区二村之内)大蔵(おおくら)村
1.大蔵村概説
(西南)福岡県庁道程十七里余
彊域 東、豊前国企救郡荒生田村【十二町】、同国同郡高槻村【十八町】、同国同郡小熊野村【一里】。東南、同国同郡辻倉村【一里十八町】南、同国同郡三竹ミツタケ村【二里】、同国同郡合馬村【二里五町】、同国同郡田代村【一里十町】。西南、畑村【二里二十八町】、上上津役村【二里】、市瀬村【二里】、中原村【一里】に接し、人家は、本村【二十二戸】、清水【十二戸】、中尾【四戸】上村【十七戸】、猪倉【九戸】、傾城谷ケイセイダニ【二戸】、山田【四戸】、重田ジュウダ【六戸】、中河内【三十二戸】、奥田【九戸】、田代【八戸、ここより畑・上津役・市瀬等に越える道あり。皆、揵径ショウケイ(=近道)なり】、十一所にあり。
当国の東裔(東の果て)にして、民家、皿倉杉山の東、山谷の間に散在す。枝村中河内は本村より南一里ばかりにあり。田代は又二十町上の山中にあり。田代の上に小川を隔て、豊前国の田代村ありて、筑前田代、豊前田代と云う【那珂郡五箇山村に東小河内あり。肥前国神埼郡の西小河内と相接し、当郡中原村も豊前中原村と相接するが如し】。
左図は西日本新聞2017.3.11から引用
両田代の境、犬牙相交じれり(※犬の牙が入りくんでいるように、土地の境などが互いに入りくんでいる)。すべて東西一里、南北一里半に亘る。
村の名義は、隣村尾倉村、寛永の頃までは小倉と書きければ、それに対して大蔵と名づけしにてもあるべし【一説に豊前小倉に近ければ大蔵と云うか。又は、大倉主神社あればにやと云えり】。
村位、中。地形、高し。運送の便、本村、中。枝村、下。【豊前小倉官道。清水】。土質、黒真土。乾地。地味、中。田は中稲・麦・菜種。畑は麦、菜種等を作る。山間の田多し。寒落の患あり。
2.戸口・田圃・租税・山林
○戸口
一 戸数 百四十五戸
一 士族 三戸
一 平民 百四十二戸
一 口数 七百七十六口
内
一 男 三百八十九口
一 女 三百八十七口
【職分】医術【男 三人】。農【男 二百二十人、女 二百二十五人】。
工【男 二人】。雑業【男 七人、女 五人】。
○田圃
一 田畑段別 五十七町五段九畝十三歩
此石高 六百二十九石三斗四合
内
一 田段別 四十一町二段二畝十八歩
此石高 五百八十五石五斗五升八合三勺
一 畑段別 七町八段六畝二十三歩
此石高 四十三石七斗四升五合七勺
一 大縄田畑段別 八町四段九畝二十二歩
○租税
一 米大豆 二百六十七石二斗四升四合 正租
此代金 七百二十八円八十三銭二厘
内
一 米 二百五十二石三斗三升一合
此代金 六百七十円二十五銭七厘
一 大豆 十四石九斗一升三合
此代金 五十八円五十七銭五厘
一 米大豆 八石一升七合 雜税
此代金 二十一円八十六銭四厘
内
一 口米 七石五斗七升
此代金 二十円十銭八厘
一 口大豆 四斗四升七合
此代金 一円七十五銭六厘
一 金 一円三十八銭六厘
○山林
一 山段別 百四十町六畝二十歩
内
一 十一町四反五畝歩 官林
一 八十七町三反六畝二十歩 元古野山
一 三町八段三畝十歩 元証文山
一 三十一町四反一畝十歩 元預山
一 六町歩 社山
※ 福岡藩では、藩有林を御山,御料林,上り山、民有林を拝領山,預り山,証文山、古野山に区分し、これに対して山役人を郡役所に在勤させて, 山林の一切の事務を管理させ, 1624年代 (寛永年間)には山方法令を定めている。
3.橋梁・池塘・牛馬・車輌学校・電線
○橋梁
一 橋二所
一 石橋一所【猿喰サルハミ川筋向坂 官費】長一間一尺五寸 幅一間三尺五寸
一 板橋一所【大蔵川筋和田前 同上】長六間 幅一間一尺
○牛馬
一 牛 九十一頭
一 牡 六十九頭
一 牝 二十二頭
一 馬 三十四 頭
一 牡 三十三頭
一 牝 一頭
○車輪
一 荷車 一 両
〇学校
一 小学校【河内】
生徒 二十七人
男 二十六人
女 一人
一 小学校【本村】
生徒 十八人
男 十七人
女 一人
〇電線
一 機柱 十六本【三百十二号より三百二十七号に至る。内三百十三号は豊前国企救郡高槻村抱地】
東、豊前国企救郡高槻村界より西、枝光村界に通ず。道程六町三十八間六尺。
4.山岳・河渠・淵池・瀑布・神社・仏寺・古蹟
〇山岳
坊主山
村の西南にあり。山麓、奥田より絶頂へ二十五町。草立。険阻なり。
皿倉山
村の西にあり。山麓、本村より絶頂へ一里。険阻。雑木草立なり。
吉川城山
村の南にあり。東は豊前国企救郡三竹村に界い、西の方八分はこの村に属す。山麓、大河内より絶頂へ六町。草立。険阻なり。
〇河渠
田代川
水源は豊前国田代村より出ず。村の東南を過ぎて、又、豊前国荒生田村界に入る【大蔵川とも云う】。小倉の西、平松浦にて海に入る。村内、長二里十町余、幅川上二間、川中四間、川下七間。平水一尺、満水五尺。板橋一所【和田前】
〇淵池
椎木淵
田代と中河内の間、道路の側に小さき飛泉あり。タラタラ水と云う。その下の川筋に水の走る岩瀬あり。鮎返りと云う。瀬の下に洲あり。広さ十坪、深さ四尺。このあたりの景趣、すこぶる佳なり。
〇瀑布
田代の瀧
田代より三町南。山上という所にあり。長さ二間、幅三尺。一の瀧という。その下三十間ばかり隔てて、二の瀧あり。長さ二間半、幅三尺。ともに水源は豊前国田代村の内、小田代谷より出ず。流末は田代川に入る。
〇神社
【村社】八幡宮【本殿 一間四面。渡殿 二間四面。拝殿 横三間入二間。石鳥居一基。社地八百坪。氏子百三十八戸】
本村の南、御乳山オチヤマにあり。祭神、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。祭日、八月二十六日。寛文七年(1667)丁未八月、尾倉村より迎え祭る。
摂社 四。
勝田神社【勝山。神功皇后・武内大臣を祭る。相伝えて曰く「大倉主命の苗裔大倉彦、神祠を経営す。又、皇后、三韓を征伐したまう時、この山の竹を旗竿に伐らせたまう」という。昔は大社なりしにや。安永年中(1772-1281)、今の社の建立の時、山を崩せしに、布目付きたる古瓦を多く掘り出せり。又、社木の枝葉を伐り取ることを禁ず。犯せば祟りありと云う】。
白山比咩神社【河内。従前は枝村中河内の奥田。田代の産神なり】。大倉主神社【勝田】。八重垣神社【御乳山】。
末社 五。梅宮神社【猪倉】。大山祇神社【上村】。豊日別神社【山田】。貴船神社【本村】。田代神社【田代】。
小社七所
興玉神社【柴原】。大山祇神社五所【山田・森が本・入尾・杖の内・中尾】。船戸神社【堂山】。
〇仏寺
小堂四所
大日堂【大河内】。阿弥陀堂【平床】。観音堂二所【河内・田代】。
〇古蹟
茶臼山城
村の西北十四町、尾倉村界、山ノ尾の上に平地二,三畝ばかりあり。これ、城址なるべし。馬場跡とも見ゆる所、その下に、東北に廻りて長く棰タルキの如し。城主不伝。
吉川城址
村の南、豊前国界の山上にあり。平地一反歩。草立なり。吉川左京と云う士【或いは肥後守とも云う】居たりしと云う。
白藤寺址
村の東北三町にあり。田間に五輪塔一つあり。
〇人物
孝子一人
大蔵村鶴次。文化十一年(1814)甲戌、米若干を与えて賞せらる【筑紫遺愛集】
5.附記(物産)
〇附記
物産
一 米 一千二百十六石 生出
一 麦 百八十石
一 大豆 八石
一 小豆 二石五斗
一 豌豆 七石
一 唐豆 二石
一 里芋 三十石
一 蕎麦 十二石
一 蕨 六千把
一 梨子 七千
一 山芋 二千本
一 梅 一石五斗
一 柿 三万
一 椎 一斗
一 栗 四石
一 椎実 三斗
一 枇杷 八貫目
一 綿 五貫目
一 茶 一貫目
一 烟草 二貫五百目
一 鶏 百四十羽
一 鶏卵 四千
一 里芋 二十石 輸出
此代金 三十六円
一 蕨 五千把
此代金 十円
一 山芋 七百本
此代金 四円五十銭
一 楊梅 二石
此代金 五円
一 梨子 四千
此代金 十円
一 柿 二万八千
此代金 十六円八十銭
一 栗 三石
此代金 七円五十銭
一 椎実 二斗五升
此代金 一円二十五銭
一 楮 百六十八貫目
此代金 三円六十銭
一 鶏卵 千五百
此代金 七円五十銭
一 蜂蜜 三百五十六斤
此代金 三十円七十八銭
一 櫨実 一万二千五百斤
此代金 百五十円
一 鶏卵 千五百
此代金 七円五十銭
一 蜂蜜 三百五十六斤
此代金 三十円七十八銭
一 櫨実 一万二千五百斤
此代金 百五十円
一 菜種 十五石
此代金 七十五円
一 薪 二万五千斤
此代金 十二円五十銭
一 竹 三百束
此代金 十五円
総計 金 三百八十五円四十三銭
福岡県地理全誌巻之四十九 終
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