「壇ノ浦合戦」の船数の誇張について

TOPICS記事

1.はじめに

 平家は千余艘を三手につくる。山鹿の兵藤次秀遠、五百余艘で先陣にこぎむかふ。松浦党、三百余艘で二陣につづく。平家の君達、二百余艘で三陣につづき給ふ。兵藤次秀遠は九国一番の勢兵にてありけるが、われほどこそなけれども、普通様の勢兵ども五百人をすぐッて、舟々の艫舳にたて、肩を一面にならべて,五百の矢を一度にはなつ。源氏は三千余艘の舟なれば、勢のかずさこそおほかりけめども、処々より射ければ、いづくに勢兵ありともおぼえず。大将軍九郎大夫判官、まッさきにすすンでたたかふが、楯も鎧もこらへずして,さんざんに射しらまさる。平家みかたかちぬとて、しきりにせめ鼓うッて、よろこびの時をぞつくりける。 【覚一本平家物語巻十一「壇浦」より抜粋】

『平家物語(覚一本)』では、山鹿兵藤次秀遠は500艘で先陣を承ったとあります。これに二陣の松浦衆300艘、三陣の平家の公達200艘が続きます。対するのは熊野や河野の水軍を加えて3000艘にふくれあがった義経軍です。

 合計すると3000~4000艘の船が関門海峡で戦闘を繰り広げたことになるのですが、めかりパーキングエリアの展望台から戦いをイメージして違和感を感じるのは私だけでしょうか。

 当時の船が現代に比べてはるかに小さかったとはいえ、関門海峡どころか(幅が500mしかないので)、主戦場の満珠干珠付近でもたいへんな混雑で艦隊行動どころではなかったのではないかと考えてしまいます。
 まあ、軍記と誇張は切っても切れない仲ですから、突っ込むのも野暮というものですが、卒論のテーマに『平家物語』を選んだ者としてはやはり気になります。壇ノ浦の戦いに参加した兵船は、本当は何隻だったのでしょうか。どのくらいの大きさで、何人乗りだったのでしょうか。それが分かれば『平家物語』がどれぐらい船の数を誇張しているかが分かるはずです。

 このブログは、そんな素人っぽい疑問を、素人っぽい方法で考えてみたものです。最初に手持ちの資料を提示します。よろしかったら、みなさんもいっしょに考えてみませんか。

2.資料を提示します

 いま私が提示できる知識は次の11項目しかありません。とりあえず並べてみます(雑然としていてスミマセン)。「 」は出典や参考文献です。

① 12世紀の初頭から粥田庄の年貢船は、底が浅く平たい平駄(艜)船によって遠賀川を下り、河口の芦屋で海船に引き渡された。「遠賀川流域の河川水運を担った五平太舟についての一論考」


② 縄文から鎌倉時代にかけて、和船においては大きな構造上の変化は見られない。
「昔の日本の船事情(岩本才次)図5」

③ 室町時代から江戸時代にかけて、準構造船から構造船への進化が見られ、船の大型化が可能になった。「同上 図6」

④ 準構造船から構造船への変化は、大木が枯渇したことが原因である。「同上 図7」

⑤ 中世の朝鮮貿易の船は、長さ9.24m以下(朝鮮から法で決められていた)。
「中世日朝通交貿易における船と航海(荒木和憲) 国立歴史民俗博物館研究報告第223号P3
42

⑥ 文禄の役の軍船は輸送船の転用で、6反帆船(乗員10人・武者24人)が原則。瀬戸内海航路の船を使ったであろう。「同上P355」

⑦ 江戸時代の黒田藩の唐船打払では、4人乗り以上(乗員4人の4丁艪)の船を200艘と兵員約2千人を動員。つまり1艘に平均10人の兵員が載る。
「福岡県史近世資料編浦方(1) 異国船漂流の節…P502」、「北九州市史近世P733」

⑧ 水主(乗組員)1人あたりの積載量は20石(3000kg)。「和船Ⅱ石井謙治P241」

⑨ 鎌倉時代の軍役は、石築地に関する幕府追加法が参考になる。
 幕府から示されたノルマは「田1反ごとに石築地1寸、石築地10尺ごとに楯1枚・旗2流・征矢20本」。(鎌倉幕府追加法)


※ 1寸=3cm、10尺=300cm。よって楯1枚は田100反(=10町)ごとに課せられる。
楯1枚が騎士1人用と仮定して、十町に1人の騎士(及び郎党2名)が動員されたことになる。幕府は、10町を騎士(名のある武士と呼ばれる)1人の番役の基準としていたと考えられる。

⑩ 筑前国の各浦の船数が記されているのは『福岡県地理全誌(明治6年)』のみ。『筑紫国続風土記』は郡合計を記載(遠賀郡104艘、大阪渡船;若松9艘・黒崎16艘)。

⑪ 慶長7年(1602)の若狭国の浦の船数は『若狭国浦々漁師船等取調帳』、『遠敷郡浦々線船数書抜帳』で分かる。小浜など中心的な港に船が集中する傾向があるものの、全体の隻数としては増加している。『福井県史』

3.船の構造    資料①・②・③・④から

 日本の船(和船)は明治以前はすべて木造で、欧米の船のような竜骨や肋木を備えていませんでした。船底の形から「ひらた船」(船べりを低く、船底を平たく作った舟)と「浦船」(船べりを高く、船底をV字形に作った舟)という分類もありますが、船の構造から、丸木舟(刳船)、準構造船、構造船に分けることの方が一般的なようです。この章では、この2つの分類によって壇ノ浦合戦の船の構造を考えてみたいと思います。

(1)艜(ひらた)と浦船    資料①から

『精選版日本国語大辞典』 「艜船・平田船・平駄船(読み)ひらたぶね」 上代から近世に至るまで、大型川船として貨客の輸送に重用された吃水の浅い細長い船。

 近代以前の日本は舟運が交通手段の中心ですから、川船(多くはひらた船)はどこにでもあったと思います。山鹿兵藤次秀遠の勢力圏である旧遠賀郡も、大小の河川が集中していますし、遠賀川河口部・江川・洞海湾など水深が浅いところを主要航路としていたと考えられますので、多くのひらた船が利用されたと思われます。もし、平家が単純に船の数を多くしたいと思えば、ヒラタ船で艦隊を編成すればよかったでしょう。しかし、ヒラタ船は浅い川や浅瀬での航行に対応するために底が平たく作ってあるため波を乗り切れず、揺れが大きくて戦いの主兵器である矢を射るのに必要な安定が得られません。壇ノ浦はご存知のように潮も速く波もかなり高くなります。ひらた船では通航だけならともかく、戦いでは使い物にならなかったでしょう。平家の船は大船も小舟も、船底がV(U)字型の「浦船」であったと思われます。

 よって、このブログでは「浦船」限定で議論を進めていきたいと思います。

(2)丸木舟(刳船)か準構造船か構造船か 資料②・③・④から

 いきなり専門用語ですので、まずは「丸木舟(刳船くりぶね)」「準構造船」「構造船」の特徴を述べます(図・文がわかりやすいので下長遺跡解説から引用しました)。

 縄文時代は丸木舟が水運に用いられていましたが、弥生時代になると、丸木舟の舷側(げんそく:船の側面)に板材を継ぎ足して容量を大きくする工夫が盛り込まれた「準構造船」が造られるようになりました。
 これに対し、板材だけをつなぎ合わせた船を「構造船」と呼んでいます。

■ 丸 木 舟 ・・・ 一木を刳り抜いた舟 縄文時代から
■ 準構造船 ・・・ 丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船 古墳時代から
■ 構 造 船 ・・・ 骨組みと板材によって建造された船  室町時代から

 丸木舟は最も原始的な舟ですが、丈夫で長持ちすることから近代まで用いられてきました。しかし、一本の木の大きさが船の大きさの限界であるため、積載量が少ないのがデメリットで、後世では田舟や渡し舟として民間で細々と利用されたに過ぎません

 これを解決するために開発されたのが準構造船です。舷側に板を張りめぐらし、貨客を多く積みこむと同時に波浪から守ることができるように工夫したものです。また、西日本では船材にクス(幅は大きいが丈が短い)を多用するため、船首・胴・船尾をそれぞれ別の一木でつくり、それを接いだ複合刳船(下図参照)が発達し比較的大型の船が作られるようになりました。

 

 下は『北野天神絵巻』の菅延喜元年(901)、菅原道真が配流される場面です。事件は平安中期ですが、歴史考証家がいませんので、船は絵巻の制作時期である13世紀前期の構造と特徴で描かれています。

 船首・船尾の不自然な傾きと舷側の縦線から、船首と船尾が接いであることがわかります。舷側に張り出している櫓棚では片舷5名(両舷で10名)の水主(漕ぎ手)が懸命に漕いでいます。帆柱は倒してありますが、帆走が可能なことを示しています。甲板はありませんが居住区である屋形が設けられ、当時最大級の船と考えられます(300石積=現在の30トン級とすれば、隅田川の屋形船と同じくらいで、長さ18~20m、幅3.5~4mぐらいでしょうか)。

 壇ノ浦合戦の時代(平安末)には日本列島の森林資源は枯渇しつつあり(比較的ですが)、例えば東大寺の再建のために重源は全国を行脚して大木を見つけなけれななりませんでした。準構造船とはいえ、船の幅は1本の木の直径以下ですから、これだけの大木を手に入れるのは非常に困難=高価だったと考えられます。おそらくこれだけの大船に乗れるのは、平家の公達や侍大将とその側近だけだったでしょう。多くの兵士たちはもっと小さな船に乗ったと思われます(平家方には中国のジャンク構造をもった大船もあったとは思いますが、隻数はさらに少なかったでしょう。平知盛が、安徳天皇が乗っていると見せかけ囮にした大船がそうだったかもしれません。あくまでもイメージですが…)

4.船の大きさ     資料⑤・⑥・⑦・⑧から

 前章で平家の公達や侍大将が乗る高価な大船が「長さ18m程、幅3.5~4mぐらい」と見当を付けました。そして、一般の兵士たちはもっと安くて小さな船に乗っているとしました。 では、具体的にどのくらいの大きさだったのでしょうか。

(1) 兵士の船は長さ9.24m以下の輸送船  資料⑤

 「どんな船で壇ノ浦合戦で戦ったか教えてください」と言われたら、あなたはどんな船だと答えますか?まさか戦艦大和のような近代戦艦を想像する人はいないでしょうが、歴史に詳し尹人ならば、安宅船や関船、小早舟などをイメージしているかもしれません。ところが、これら戦闘専用の船は戦国末期に瀬戸内海を中心に急速に発達したもので、平安末期にまで遡ることはありません。とすれば、正解は輸送船しかありませんね(船は本来輸送用ですから)。平家も源氏も、そこら中(平家は九州、源氏は熊野・四国・瀬戸内)の「海の勢力」から輸送船を臨時徴用して戦いに臨んだのです。

では、一般の兵士たちが乗っていたのはどれくらいの大きさの輸送船だったのでしょうか?

 少し時代は下りますが、朝鮮国の『明宗実録』22年(1567)5月庚午状に、日本国王使(実は対馬の宗義調が仕立てた偽使)から、「使船(貿易船)の長さの規定25~30尺を、営造尺(7.70~9.24m)から布帛尺(11~14m)に改訂してほしい」と要望されたが、「100年以上前の世宗の正統年号(1436-1450)から営造尺なのだから改訂はできない」と回答したという記事が見えます。(資料⑤)

室町時代の遣明船 1/20模型】

(船の科学館ものしりシートNO.4)

室町時代、木材加工の道具や接合技術の革新が起こり、構造船(板材だけの船)が発明されました。船の幅は木の直径から解放され、急速に堅牢化かつ大型化しました。

 世宗の代はその最中です。風濤激しき玄界灘を越える室町時代の貿易船が7.709.24mの長さしかないのですから、平安末期の壇ノ浦合戦に臨時徴用された内海航路船は、それより小さいと考える方が常識的だと思います。

 ちなみに16世紀末の文禄の役の軍船も輸送船からの転用で、6反帆船(乗員10人・武者24人、200石積程度)が原則で、瀬戸内海航路の船を使ったと思われます。(資料⑥)

 現在の船ならば、8人乗りの釣り船(19トンの和船ボート:全長8m、幅2.4m)が、室町時代の朝鮮貿易船と同じくらいの大きさです。

【六反帆船 34丁艪小早】

全長約 14m 航長 全高 約 10.0m 

 六反帆船とは、帆が6枚の反物の広さがある船のことをいいます。帆のたて筋に着目して数えてみてください。6枚あったでしょう?なお、入出港時や風がない時は櫓を使って航行しました。34丁艪ですから文禄の役の軍船よりもかなり大型です。

 

(2) 一般の兵船の大きさはどれくらい?  資料⑦

 前項では「戦いの時、普通の兵士が乗る兵船は9.24m以下の輸送船」と結論めいたことを言いました。でも「以下」ですから、まだ不十分です。「〇m以上」が付かないとイメージしようがありません。最小の兵船はどのくらいの大きさだったのでしょうか?

 とはいえ、大きくて華やかなものには目がいっても、小さいもの・地味なものには目がいかないのが人間です。ほとんど諦めながら、福岡県史の『黒田藩浦方文書』をめくっておりましたら、なんとありました、「〇〇以上」が!

寛政八年「異国船漂流之節執斗書付写」【福岡県史近世資料編 福岡藩浦方1P502】に

「一 御船乗水夫千九拾五人合并浦船四十七艘、一艘四人乗に〆此水夫百八十三(ママ)人、都合千二百八拾三人…」

 この文書は、漂流を装って北部九州に出没する唐船(中国船)を打ち払うためのマニュアルの一部です。唐船発見の報の伝達経路から撃退までの手順、水夫の給与まで事細かに規定されています。漂流とありますがそれは唐船の言い訳で、実は密貿易のために北部九州沿岸に近づいてきたのです(ただし責任は神国と相談せずに、突然貿易許可を取り消した幕府にあったように思えますが…)。

 この海域に接する三藩(福岡・小倉・萩&長府藩)は当初、避戦の方針で退去を勧告していましたが、唐船がいつまでたっても立ち去らない様子に業を煮やし、享保二年、幕府に許可を得て鉄砲や大筒を打ちかけ、実力で追い払うに至りました。その後も回数こそ減りましたが唐船の不法侵入は絶えず、三藩は警戒態勢を解くことができませんでした。この文書はそんな情況を踏まえたものですから、当然戦闘を意識していたと思われます。

「源平和船競争 おしぐらんご笠岡市

「一艘四人乗」とありますが、これは水主が4人という意味ですから浦船の多くは四丁艪船だったのでしょう。そして、これが戦闘できる最小限の船と意識されていたと思われます。

 江戸時代は基本的に平和な時代でしたから、海陸を問わず戦闘のための技術(戦法)はあまり進歩しませんでした。おそらく、戦国末期(江戸時代に、昔の人に仮託されて作られたものも多かったと思いますが)の戦法が口伝や秘伝書で伝えられ、それに従って陣立てがなされたと考えられます。無論、源平合戦の時代に鉄砲・大筒はありませんが、櫓を漕ぐ人間の体力に大きな変化はないので、どちらの時代も四丁艪船が最小の兵船と考えても大きく外れていないと思います。

                   須佐浦唐船打払覚書(一般郷土資料28) 
長崎近辺でも、中国の大型船(中央やや上)を多数の小舟で包囲して打ち払おうとした

(3)四丁艪の浦船に兵士は何人載るの   資料⑦・⑧

 享保二年五月十三日、沖合に碇泊する8隻の唐船に対し、小倉藩主小笠原右近将監の指揮の下に小倉藩100艘、長府藩80艘、萩本藩180艘そして福岡藩200艘の計560艘の連合船団が唐船を追い払いました。だが、風波が激しく小舟の航行が困難で追撃はできなかったといいます。

 福岡藩は200艘の船で、家老1人、中老1人、鉄砲大頭1人、その他の藩士2130人が若松から出動していますので、1艘当たりの兵士は約10人になります。しかし、千里丸(58丁艪)、名月丸(22丁櫓)のような比較的大きな船や突撃・連絡船としての鯨船(捕鯨船20丁艪に砲手2名)も参加していますから、小型の船には1艘当たり8人程度の兵が乗り組んでいたと思われます。

 ちなみに櫓1丁すなわち水主(漕ぎ手)1人あたりの積載量は20石(300kg)というのが通説ですので(和船の権威石井謙治氏の論)、4丁艪船は80石(1200㎏)鎧武者の重量を1人100kgとしても800kgで、十分な航行能力があったと思います。

 源平の頃の話をするのに、江戸時代の紛争が根拠になるのか、いささか心許なくはありますが、内燃機関がない時代、「海」「船」「人」の関係は大きくは変わらないと開き直って、次章から、壇ノ浦合戦に参加した最小の兵船(これが一番安いので、数が多かったと思います)について推測してみます。

5.山鹿兵藤次秀遠の兵と船はどれくらい? 資料⑨

 前項で「一般の兵士が乗る船の定員は乗員4人、兵士8人」としました。あとは山鹿兵藤次秀遠の兵士数が分かれば「山鹿秀遠の兵数÷8」で船の数が出ることになります。もう少しです、がんばって!

 ところが、山鹿秀遠に関する確実な史料は少なく、はっきりとしたことはわかりません。ただ、菊池系氏族で大宰府の府官であった父粥田経遠と叔父山鹿経政の両方の所領を継いで、2000町ほどの勢力圏があったのではないかと言われています。根拠地の山鹿城は国津と呼ばれた芦屋津の対岸にあり、遠賀川水系と関門海峡ー博多湾を結ぶ最重要航路の交差点を抑える位置にありました。また、壇ノ浦合戦後「平氏与党人」として所領を没収されていますので、平氏の家人というより、ある程度の独立性を持った在地勢力とも考えられています。

 さあ、以上のデータから山鹿秀遠の兵士数は割り出せるでしょうか?

 幸い、所領の広さと兵士数の関係については、鎌倉幕府が「元寇防塁」を築くために作成した「鎌倉幕府法追加(御成敗式目の追加法)」が参考になります。資料⑨で述べましたが、幕府は、元寇の時、10町ごとに騎士(名のある武士とも呼ばれます)1人の従軍を義務化していました。このことを参考にすれば、山鹿秀遠の2000町の勢力圏からは、200人の騎士(名のある武士)と郎党・所従約600人、計約800人の戦闘員を動員できたことが推測できます。

※ 中世において武士の最小戦闘単位は、騎乗の武士1名に郎党2名でした。所従と呼ばれる荷運びや雑用を行う者を1~2名連れていることもあったので、ここでは4名を1チームとしました。

 このイラストの後ろ2人は戦闘する権利がないのに刀を振り回しているので、後で主人から「推参なり」と叱られたでしょう。

 では、数字が揃ったようですので、代入して計算してみましょう。

800人(山鹿秀遠の全兵数)÷8人(浦船の兵士定員)=100(山鹿秀遠の船の数)

 答えが出ました。山鹿兵藤次秀遠の船の実数はおそらく100艘程度で、『平家物語』の500艘は、約5倍に誇張しているものと考えられます。

6.よくある質問    資料⑩・⑪

(Q.1)100艘というのは山鹿秀遠の船だけですよね。平家最大与党の原田氏が協力していっしょに先陣を務めれば、500艘に近くなるのでは?

(A.1)たしかに、原田氏は、山鹿氏の2倍くらいの所領(3700町)があったとされているので、兵力も2倍はあったでしょう。しかも糸島から博多湾岸一帯に勢力を広げ、平家のもとで日宋貿易にも従事していたので船もたくさん持っていたと思われます。そのほか隣の宗像氏など中小の豪族と協力すれば500艘になるかもしれません。ただし、協力すればです。

 近代の軍隊は階級と命令系統が整備されているので、よその部隊と協働して移動・攻撃することはいちおう可能なのですが、中世の軍隊はそうはいきません。地域が近いということは、日常的に水争いや押領などのトラブルを抱えているということです。「味方だからいっしょに協力してがんばった」なんてことはそうそうありません。むしろ、嫉妬や遺恨から、好機に動かなかったり妨害したりするので、味方といっても油断のならない存在だったようです。

 現に原田種直は前年、平家救援のために大軍を引き連れて平家と合流しようとしましたが、安徳天皇と平家の公達が山鹿の城に入ったという情報を得るや、「あしかりなん」と引き返してしまいました(『平家物語』巻八)。

 宗像氏は平家滅亡後「私は源氏方でした」と主張していますが、情況からいって考えがたく、やはり平家方として参戦したと思われます。しかし、一族でも家人でもないのに、山鹿氏の指揮を仰ぐとも思えません。独立した陣を張り消極的に戦うか傍観するかしていたのを「源氏の御味方でした」と言い張ったのかもしれません(憶測です)。

 開田氏(鞍手郡・遠賀川西岸)や香月氏(遠賀川東岸)は、山鹿氏の一族だったという伝承があります。これが正しければ、秀遠の先陣に加わってともに戦ったと考えられます。しかし、山鹿氏の勢力下の2000町の中に含まれますので、兵も船もカウント済みで先陣が増えることはありません。

(Q.2) 4丁艪の船がどのくらいの大きさか分かりませんが、実はどこにでもある船で、500艘くらいは簡単に動員できて、1艘に兵士が1~2人しか乗らない可能性はありませんか?

(A.1) とてもいい質問ですね。実は私もそうかもしれないと思って調べたんですよ。結局、平安末の浦船の数についてのデータを見つけることができず(力不足で中世のデータも見つけられませんでした)、またもや江戸時代や明治初期のデータから推測するしかありませんけれど…。

 4丁艪船の大きさは、実物が1艘も残っていないので実は不明ですが、資料⑤の『海東諸国記』使船大小船夫定額状を参考にすれば長さ7~8m、幅2mぐらいですから、現在の小型漁船ぐらいでしょうか。

 ところで、あなたは平安末・鎌倉時代と江戸・明治初期では、どちらが船の数が多いと思いますか?私は、断然、江戸時代の方が多いと思います(まったくの勘ですが…)。本文でも述べましたが、室町期に船は構造船に進化し大型化します。大陸・朝鮮貿易も盛況となり内海航路の需要も増えたことでしょう。天竜寺船、勘合貿易、倭寇、禅僧の渡明の活発化、朱印船貿易などはその証と言えます。

 ところが、明朝・清朝の海禁政策を契機に、東アジアの国家間交易は減退し、かわってポルトガルやスペインの冒険的商人による密貿易(南蛮貿易)が盛んになります。後にキリシタン禁制の影響でポルトガル・スペインがイギリス・オランダにとってかわり(1623年イギリスは脱落)、寛永12年(1635)、東南アジア方面への日本人の渡海が禁止されるにいたりました。けれど外国交易の技術は国内流通に転用され、米の増産と人口増加、大名の一円支配による富の集積、国内統一による海関の廃止、北廻り・東廻り航路の開発などと相まって内海航路は隆盛に向かいます。

 山鹿秀遠の所領があった遠賀郡では『筑前国続風土記(元禄元年1688成立)』によれば「大船3隻小船101隻、計104隻」(大小船の詳細は不明)だったのが、『地理全誌(1874調査)』では191隻とほぼ2倍になっています。【資料⑩】

 この傾向は他の地域でも同様で、若狭国遠敷郡(オニュウ郡、小浜湊がある)では江戸初期の慶長7年(1602)から寛永8(1631)の30年間で、大中小船は281艘(内4丁艪以上は110艘)から436艘に増え、水夫数も867人だったのが1518人へと倍増しています。【資料⑪】

 数字が多くてスミマセンこのことから推測できるのは、江戸時代以前、船数はもっと少ないだろうから、平安末の場合、先ほど計算した100艘を揃えることさえ難しいかもしれないということです。元禄元年の遠賀郡の船数の4丁櫓以上の船の割合が、慶長7年の若狭国遠敷郡と同じ(39%)と仮定すると、40艘弱となります。船が準構造船でより貴重だった平安末だと何艘になるのでしょうか。

 

『吾妻鏡』では、源氏840余艘と平家500余艘が壇ノ浦で戦ったとあります。この数字も誇張とは無縁ではないと思いますが(『吾妻鏡』は、合戦の兵数を大きく誇張する傾向があります。例えば、承久の乱の鎌倉軍の総計19万騎など、ありえない数字が出てきます。最近の研究では、全国の御家人を集めても数千人しかいないとされています)、いちおう史書ですから敬意を表し、話半分として、平家の船を250艘と仮定します(根拠はありません)。山鹿秀遠の先陣は『平家物語』では平家の船の50%を占めていたので、同じ割合なら125艘です。さっき計算した40艘ではまったく足りません。125艘にしようとすれば、筑前・豊前の宗像氏・板井氏・宇佐氏・香椎社・箱崎社・住吉社・志賀社や、2月に芦屋浦合戦で範頼軍に敗北した原田氏の残党など、北部九州で平家方と思われる中小豪族を総動員して補うしかなさそうです(肥前の松浦党は第2陣です)。

 なんとか船の数と兵員を揃えたとしても、日ごろ仲が悪い豪族たちの寄せ集めだけに、一糸乱れぬ艦隊行動など、とてもムリだったのではないかと思われます。

 『平家物語』では、山鹿秀遠の部隊は、横陣を組んだ500艘の船の先頭に屈強の弓兵を配置し、500張の弓矢の一斉射撃によって義経軍を圧倒したことになっていますが(このレポートの冒頭参照)、この部分こそ文学的修飾の最たるものと言えるのではないでしょうか。

 

 私の力ではこれ以上追求することはできませんが、『平家物語』の壇ノ浦合戦の船の数は、相当に誇張された表現であることは間違いなさそうです。

7. まとめ 

 『平家物語』で華々しい活躍をする山鹿兵藤次秀遠の先陣500艘の正体は、当時の船の構造や大きさ、山鹿氏の所領規模、当時の氏族の独立性から推測すると、山鹿秀遠単独で先陣を構成した場合、4丁艪の浦船に、各船水夫4人と兵士8人程度を乗せた、多くとも100艘、おそらくは40艘以下の船団であったかと考えられます。ある程度の船数を揃えようとすれば、北部九州の中小豪族や社寺の船を寄せ集めるしかなく、その場合『平家物語』のような一糸乱れぬ戦闘行動を行うことは不可能になったと思われます。

よって『平家物語』は、壇ノ浦合戦の山鹿兵藤次秀遠の先陣の船の数を、10倍近くに誇張しているか、あるいは数は合っていても烏合の衆に過ぎなかった先陣を、一糸乱れぬ戦い方をしたかのように文学的修飾を施したと考えられます。

 『平家物語』に限らず、およそ軍記物語に出てくる数字ほ針小棒大、まったくあてになりません。まあ、読者を興奮と感動の渦にたたき込むのが目的の文学作品ですから、文句を付けるのはおかど違いというものですが、役所(朝廷)もマスコミ(寺社)も科学の成立以前のことで正確な数字を残そうという意識がないだけに、唯一数字を残してくれている軍記物語に、ついついやつあたりしたくなります。『平家物語』、ごめんなさい!

コメント

タイトルとURLをコピーしました