福岡県地理全誌巻之三十九 (第五大区) 遠賀郡之一
(二十六小区二村之内)枝光(えだみつ)村
1.枝光村概説
(西南)福岡県庁道程十六里三十一町
彊域 東、中原村【一里十八町】。南、大蔵村【十八町】西、尾倉村【十八町】。西北、内海【三町】。北、戸畑村【一里】に接し、人家は、本村【上方、下方、畔地、北山六十一戸】、中銘ナカノミョウ【十戸】下宮シモノミヤ【四戸】、長尾【六戸】、犬川【十二戸】、堂山【四戸】、六所にあり。
中銘はもと尾倉村の内なりしが、寛永中 (1624~1644)、田地十八町を割きて此村に加う。延宝・天和の頃(1673~1684)より、村の西北中富の入海の潟を埋めて水田を開き、海辺に石堤を築きて潮水を防ぐ。長三百三十五間、田数おおよそ七町二反二畝十八歩。その後、明和七年(1770)庚寅、又、犬川という所を佃とす。石堤長四百八十間、田数二十町歩。嘉永五年(1852)壬子三月、又、潮浜八反四畝三歩を開けり。
村の名義は、神功皇后征韓の時、ここに御船を留めたまい、幸神サイノカミを祭りたまいし折しも、榊の枝に神寳を掛けたまいし故、鏡などの枝に光れるを以て枝光と称すと云う。或いは又枝三と書きて、岡縣主熊鰐、この村の熊本山の榊を取りて上枝に白銅鏡マソカガミを掛け、中枝に十握剣トツカノツルギを掛け、下枝に八尺瓊ヤサカニを掛けし故に枝三と称すと云う。
村位、中。地形、高し。運送の便、上【豊前国小倉官道十二町】。土質、七歩黒真土、三分沙交黒土。三分乾地、七分湿地。地味、中。田は中晩稲・麦・菜種。畑は麦、菜種・蕎麦等を作る。旱患あり。土産、塩、海藻。
2.戸口・田圃・租税・山林
○戸口
一 戸数 百四戸
平民
一 口数 四百九十九口
内
一 男 二百五十四口
一 女 二百四十五口
【職分】医術【男 一人】。農【男 百二十三人、女 百十一人】。商【男一人、女一人】。雑業【男 二十八人、女 二十五人】。雇人【男 七人、女 一人】
○田圃
一 田畑段別 八十九町四段一畝七歩
此石高 五百八十四石八斗七合一勺
内
一 田段別 四十町九段四畝歩五厘
此石高 五百十七石六斗三升四合
一 畑段別 十四町六段八畝二十八歩五厘
此石高 六十七石二斗三升七合
一 大縄田畑段別 三十三町七段八畝八歩
○租税
一 米大豆 三百十八石九斗二升八合 正租
此代金 八百七十九円一銭四厘
内
一 米 二百九十三石八斗七升二合
此代金 七百八十円六十銭
一 大豆 二十五石五升六合
此代金 九十八円四十一銭四厘
一 金三十一円九十五銭 【大縄】塩浜税
一 米大豆 九石五斗六升八合 雜税
此代金 二十六円三十七銭二厘
内
一 口米 八石八斗一升六合
此代金 二十三円四十一銭八厘
一 口大豆 七斗五升二合
此代金 二円九十五銭四厘
一 口金 九十五銭九厘
一 金 一円七十一銭四厘
○山林
一 山段別 五十六町三段九畝二十歩
内
一 十七町四反八畝十歩 官林
一 三町歩 野山
一 三町二反六畝二十歩 元拝領山
一 二十一町六段三畝十歩 元証文山
一 八町八畝十歩 元預山
一 二町九段三畝歩 社山
※福岡藩では、藩有林を御山,御料林,上り山、民有林を拝領山,預り山,証文山、古野山に区分し、これに対して山役人を郡役所に在勤させて, 山林の一切の事務を管理させ, 1624年代 (寛永年間)には山方法令を定めている。
3.橋梁・池塘・牛馬・学校・船舶・電線
○橋梁
一 土橋一所【石縄手川筋街道 官費】 長一間 幅二間
○池塘
一 池五所
内
一 一所(犬川下 官費) 水面三反歩 水掛田十八町五反歩
明和八年(1771)辛卯築立
一 一所(犬川上 同上) 水面二反五畝歩 水掛田犬川下池に移す
安永五年(1776)丙申築立
一 一所(大場谷オオバガタニ 同上) 水面二反五畝歩 水掛田六町一反歩
文化十四年(1817)丁丑築立
一 一所(宮田谷 同上) 水面二段歩 水掛田六町一反歩
文政六年(1823)癸未築立
一 一所(山ノ口谷 同上) 水面二反二畝歩 水掛田一町四反歩
文政十一年(1828)戊子築立
○牛馬
一 牛 五十五頭
牡
一 馬 十八 頭
一 牡 十七頭
一 牝 一頭
○船舶
一 農業船 六隻
〇学校
一 小学校【本村】
生徒三十二人
男 二十四人
女 八人
〇電線
一 機柱 十三本【三百二十八号より三百四十号に至る。内七本、尾倉村抱地】
東、大蔵村界より西、尾倉村界に通ず。道程六町五十間四尺【内一町二十二間三尺五寸尾倉村抱地】
4.嶋嶼・神社・仏寺・古蹟
〇嶋嶼
松が嶋
村の西、海岸より一町にあり。十間四面の小嶋なり。小松立てり。
裸島ハダカジマ
村の西、海岸より二町にあり。大きさ松島に同じ。岩嶋にて草木生ぜず。
〇神社
【村社】八幡宮
【本殿 横一間四面。渡殿 横一間半入二間。拝殿 横三間入二間。石鳥居一基。社地千坪。氏子九十戸】
本村の東、諏訪山【熊本山とも云う】にあり。
祭神、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。祭日、八月十四日。
社伝に曰く「後鳥羽院の建久五年(1194)甲寅、麻生重業、初めて本国下野にて祭りし八幡宮を村の西海辺の宮田山に迎えたて祭る【今、古宮とも下の宮とも云う。この村、神功皇后の神迹の由言い伝うれば、八幡宮を祭れるも謂われありとすべし】。
本社・拝殿・楼門・石門・御輿殿・神楽殿等あり。
年中十五度の祭あり。正月元日祭・七日若菜祭・十五日祭・二月初卯祭・三月三日潮干祭・四月朔更衣祭・五月卯日御田藝祭・六月晦夏越祭・七月七日祭・八月十五日行幸祭・九月九日祭・十月亥日祭・十一月初卯新嘗祭・十二月二十八日松立祭。社中、掛端出縄と云えり。
その後兵火に罹りし故に、寛永四年(1627)丁卯の秋、貴船山に【此所に昔、貴船神社あり。是も麻生氏立つという】、叢祠を立つ。寛文五年(1665)戊辰、又、今の地に移し、貴船祇園をも同殿に祭れり。麻生氏全盛の時は大社にして、八月十五日には中富の海浜に神幸あり。流鏑馬を興行せしと云う。神田二町、圃一町、祝ハフリ宅地は数畝ありしと云う。朝拝田・五月田・八月田・油田・獅子口田・新料田など云う田字は今も残れり。
社記一軸あり【享保二十年(1735)、稲留希賢撰】
※【稲留希賢イナドメマレカタ】(1689-1772) 江戸時代中期の儒者。
元禄2年、筑前出身。貝原益軒に入門し,筑前福岡藩につかえる。のち江戸で荻生徂徠、山県周南らにまなぶ。延享2年金沢藩にまねかれ,4代にわたる藩主の侍講をつとめた。
摂社 一 諏訪神社【中富。祭神、建御名方命タケミナカタノミコト。諏訪山の地主神なり。享保中に立つ。貴舟・祇園をも併せ祭れり。昔は戸畑村にて祭田五反ありと云う。今、田字にあり】
末社 八 伊勢大神宮【社地】。豊日別神社【豊前坊】。恵比須神社【中村】。大歳神社【大歳】。大山住神社【宮田山】。中臣神社【中臣島】。菅原神社【畝地アゼチ】。馬神社【北山。麻生氏が名馬の霊を祭ると云う】。
小社 五所
貴舟神社【中銘】。大歳神社【犬川】。山王神社【畦地】。厳島神社【犬川】。大山積神社【同上】。
〇仏寺
小堂 四所
観音堂三所【北山・大下オオシモ・堂山】。馬頭観音堂【畦地】。
〇古蹟
中臣
村の西北九町にあり。此所、昔は入海にて中臣と云える小嶋あり。延宝天和の頃(1673~1684)、埋めて神田とす。神功皇后、この地を過ぎさせたまい、海路の安穏を祈り、中臣烏賊津臣(※中臣連の祖)をして道祖神を祭らしめたまう。故に中臣と名づくと云う【今、中富とかくは誤りなり】。今も中臣神社あり。
熊本山
村の東にあり。即ち諏訪山なり。岡縣主熊鰐、百枝の賢木を抜き取りて、上枝に白銅鏡を掛け、中枝に十握剣を掛け、下枝に八尺瓊を掛け、仲哀天皇を迎え奉りし事、日本紀に見えたり。賢木は即ちこの山の榊なりと言い伝う。
笹原城址
村の東南、大蔵村界にあり。平地七畝ばかり。麻生氏の砦跡なり。
※ 現在の大蔵中学校あたりに築かれていたというが案内板なども見あたらず、遺構も残っていない。
(中央やや左が大蔵中学校)
善光寺址
本村の内、北山にあり。竹葉山善光寺址と云う。観音堂あり。
5.附記(物産)
〇附記
物産
一 米 九百六十石六斗 生出
一 麦 七十二石
一 大豆 十五石
一 小豆 二石五斗
一 豌豆 二石
一 唐豆 一石五斗
一 蕎麦 十八石
一 里芋 一石五斗
一 大根 五千本
一 茄子 二千
一 山芋 三百本
一 梨子 五千二百
一 柿 二万四千
一 梅 六斗
一 橙 五百
一 椎 一斗
一 栗 二斗五升
一 綿 十八貫目
一 茶 三貫二百目
一 烟草 四貫目
一 鶏 百五十羽
一 鶏卵 六千
一 家鴨 二十羽
一 海髪オゴ 三貫目 ※おごのり 刺身のつまや寒天の材料になる
一 苔菜ノリナ 二貫目 ※のりな=あおのり
一 イギス 三貫五百目 ※イギスはえごのりから作った寒天状の食材
一 塩 二千石
一 鶏卵 五千 輸出
此代金 二十五円
一 櫨実 一万二千斤
此代金 百四十四円
一 薪 五万斤
此代金 二十五円
一 塩 千八百八十石
此代金 五百六十四円
総計 金 七百五十八円
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