福岡県地理全誌巻之四十四 (第五大区) 遠賀郡之六
(十二小区二村之内)上底井野(かみそこいの)村
1.上底井野村概説
(西南)福岡県庁道程十二里
彊域 東、垣生村【七町】。鞍手郡下大隈村【十二町】。南、同郡上木月村【三町】。同郡木月村【十二町】。西北、中底井野村【十四町余】に接し、人家は、本村【大鋸谷・御畑・吉鼻・沙原・廣蕪ヒロカブラ百十四戸】、常貞【二十二戸】、正応寺【一戸】、五楽【一戸】、四所にあり。本村の内、中筋は沙原、町立長百四十間。この地、昔は沼瀦にして葦草のみ生えたりしが、豪農に老婆あり。知謀をもって畬菑(ヨサイ:新田を拓くこと)の業を起こし、遂に一村落をなす【古蹟の条に詳らかなり】。里民は略して上村と称す。村位、上。地形、平坦。運送の便、上【鞍手郡木屋瀬駅、一里】。土質、東北五分黒真土、西南五分砂交じり黄土。八分乾地、二分湿地。地味は中。田は中稲、麦、菜種。畑は大豆、粟等を作る。薪秣に乏し。土産、瓦、蓮根。
2.戸口・田圃・租税・山林
○戸口
一 戸数 百四十七戸
内
一 士族 一戸
一 僧 二戸
一 平民 百四十四戸
一 口数 七百三十一 口
内
一 男 三百六十五 口
一 女 三百六十六 口
【職分】従者【女 一人】。医術【男 五人】。筆学【男一人】。
農【男 百七十一人、女 百六十六人】。工【男 十九人】。商【男十七人 女十二人】。
雑業【男 三人、女 三人】。雇人【男 十三人、女 十二人】
○田圃
一 田畑段別 百十四町一段七畝三歩
此石高 千百五十二石四升二合
内
一 田段別 八十五町二段一畝二十七歩
此石高 千四十三石五升一勺
一 畑段別 二十六町五段九畝二十一歩
此石高 百八石九斗九升一合九勺
一 大縄田畑段別 二町三段五畝十五歩
○租税
一 米大豆 六百四十三石一斗一升三合 正租
此代金 千七百八十三円五十一銭三厘
内
一 米 五百八十三石九斗四升二合
此代金 千五百五十一円十銭二厘
一 大豆 五十九石一斗七升一合
此代金 百三十二円四十一銭一厘
一 米大豆 十九石二斗九升三合 雜税
此代金 五十三円五十銭四厘
内
一 口米 十七石五斗一升八合
此代金 四十六円五十三銭二厘
一 口大豆 一石七斗七升五合
此代金 六円九十七銭二厘
一 金 二十二円二十一銭四厘
○山林
一 山段別 一段三畝歩
内
一 五畝歩 官林
一 八畝歩 社山
3.橋梁・牛馬・船舶・学校
○橋梁
一 橋 三十八所
内
一 石橋 一所【山田川筋御茶屋前 官費】 長二間二尺 幅六尺
一 同 一所【同川筋薬師下 同上】 長二間一尺 幅六尺
一 同 一所【同川筋御宮前 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋四町ヨツマチ 同上】 長一間五尺 幅四尺
一 同 一所【同溝筋道仙 同上】 長一間五寸 幅四尺
一 同 一所【同溝筋井樋口 同上】 長一間三尺八寸 幅五尺
一 同 一所【同溝筋正応寺 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋墓下 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋池田 同上】 長一間五寸 幅四尺
一 同 一所【同溝筋市屋敷 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋打洞ウチホゲ 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋流ナガレ 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋吉鼻ヨシハナ 同上】 同上
一 土橋 一所【山田川筋御裏御門 同上】 長二間一尺 幅一間二尺
一 同 一所【同川筋薬師下 同上】 同上
一 同 一所【同川筋前川 同上】 長一間三尺八寸 幅五尺
一 同 一所【白水道川筋西口 同上】 長二間一尺 幅五尺
一 同 一所【同川筋舟田 同上】 同上
一 同 一所【山田溝筋八反田 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋御座瀬 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋ウケ場 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋神手ジンデ 同上】 長一間五寸 幅四尺
一 同 一所【同溝筋奥園 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋向神手 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋兼宗 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋森下 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋柿添 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋金丸 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋流 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋四反田 同上】 同上
一 同 一所【同上 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋五楽 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋野間口 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋中曽根 同上】 同上
一 同 一所【山田川筋吉鼻 同上】 長二間一尺 幅一間一尺八寸
一 同 一所【同川筋平通 同上】 長一間五寸 幅四尺
一 同 一所【山田川溝筋平通 同上】 同上
一 同 一所【同溝筋亀甲 同上】 同上
○牛馬
一 牛 五十頭
内
一 牡 四 頭
一 牝 四十六 頭
一 馬 三十 頭
牡 九 頭
牝 二十一 頭
〇舩舶
一 渡舩 一隻
〇学校
一 小学校【本村】
生徒 六十八人
内
一 男 六十四人
一 女 四人
4.河渠・淵池・神社・仏寺
〇河渠
山田川
東南、鞍手郡下大隈村界より流れ来たり。村の中央を過ぎて、中底井野・下底井野・木守・今古賀・廣渡・若松、六村を経て西川に入る。
総計二里三十一町。村内長千六百八十間、幅二間。平水一尺五寸、満水三尺五寸。
唐戸三所【カネムネ、ツネサダともに長二間、幅五尺】。
石橋三所【御茶屋前、薬師下、御宮前】。
土橋七所【御裏御門、薬師下、吉鼻、前川、西口、平通】
狭間川
水源は山田川。本村の内、沙原にて分流し、中底井野・下底井野・木守・廣渡四村を経て、吉原川に入る。総計一里七町。村内、長二百間、幅五尺。平水一尺、満水三尺。
〇淵池
天然池
長池【村の西三町】、水面二反歩、深五尺。
〇神社
【村社】月瀬八幡宮【本殿 横二間、入二間半。渡殿 二間四面。拝殿 横三間、入二間半。石鳥居一基。社地横二十間、入三十間四面。氏子百三十三戸】
本村の中央、猫城山にあり。祭神は品陀和気命・比咩大神・息長足媛命。相殿、岡祖神【黒田忠之の霊を祭るという】。祭日、9月9日。
寛永十五年(1638)戊寅、黒田忠之、神主佐野正安に【正安が子孫の家に、天文二十年(1551)大内義隆よりの大府宣・同年同家臣社料田寄附状・永禄五年(1562)補任・元亀元年(1570)・同三年(1572)鷹取城主より補任并寄進状・天正十一年(1584)・同十三(1586)年麻生家の補任并寄進状等、凡て七通を蔵す】命じて、豊前国宇佐八幡宮を迎え祭らしめらる。
慶安三年(1650)己丑、改造の棟札あり。
宝暦二年(1752)壬申、黒田継高より御供料を寄附せらる。
この社、里民は地名をもって猫城八幡と称し来たりしが、慶応四年(1868)戊辰、月瀬八幡宮と改号す【宇佐八幡宮の前に月瀬川あるによれり】。寄附米一石四斗八升。
摂社 二。菅原神社【熊山】、多賀神社【社地、伊弉諾尊イザナギノミコトを祭る。大内義隆建立。神領三町ありしという。その頃の社は東北の方、梅園山にあり。
末社 二。須賀神社。蛭子神社【ともに社地】。
〇仏寺
正覚寺【本堂 五間半四面。寺地 一反七畝二歩。檀家九十六戸】
本村の内、御畑にあり。小松山無量院と号す。浄土宗鎮西派。中本山福岡大長寺に属し小本山たり。
元和二年(1616)丙辰、信空という僧、創立す。
昔は真言宗なりしを、いつの頃か改宗せりという。末寺、一。正福寺【垣生村】
道光寺 【本堂 五間四面。寺地四百九十二坪。檀家八十戸】
在所、上に同じ。宝池山と号す。真宗西派。本山、西京本願寺の末なり。寛永十六年(1639)己卯、開祖慶甫創建す。貞享五年(1688)戊辰、寺号木仏を許さる。
小堂 二所
観音堂【常貞にあり。正覚寺の末庵なり。元禄七年(1694)甲戌、黒田光之修造のよし、棟札にあり】。
薬師堂【御畑】。
※ 写真は「薬師堂」
5.古蹟・人物
〇古蹟
猫城趾
猫城は月瀬八幡宮のある比高20m程の微高地に築かれている。 比高20m程の小山ではあるが急峻な地形で周囲には沼地が広がっていたという。山頂には月瀬八幡宮が鎮座しており、二段の平地が残る。付近の水路は堀の名残だという。
※記事と写真は「城郭放浪記」のものを拝借しましたhttps://www.hb.pei.jp/shiro/chikuzen/neko-jyo
八幡宮の社地なり。この城はじめは麻生氏の出城にて、永富四郎左衛門尉、居城す。天正六年(1578)戊寅、遠賀川より西は宗像氏の手に入れあれば、その家臣吉田倫行という者に、雑兵五十余人相添えて籠り置きける。
然るに天正八年(1580)庚辰5月上旬、鞍手郡鷹取の城主毛利兵部少輔鎮実、立花の戸次道雪の勧めによりて、下鞍手に出張し木屋瀬に陣を取る。
この折節、道雪、使いをもって言い送られけるは「その方、宗像方の端城を攻める振れをするならば、氏貞、多勢をもって後詰すべし。然らば、その方の勢は、馳せつ返しつ敵をあいしらい鞍手郡につりとめ、日数を送らしむべし。その間にこなたの勢は西郷より稲元に出、蔦岳に押し懸け乗っ取るべし」とありければ、鎮実、子細なく請け合いて、先手寄なればとて猫城を取り巻きけり。
城中の兵ども攻め口に下合して命を惜しまず防ぎ戦う。鎮実、「城中は小勢なり」と見侮り、道雪に合図の日限をも忘れ、寄るとひとしく息をも継かせず責めたりける。城中無勢のことなれば、防ぎかねてぞ見えにける。然れども、氏貞かねての相図には、「旗下の城々もしくは領内に不急のことあらば、狼煙を揚げて蔦岳に急を告げよ」とのことなれば、倫行、相図の狼煙を立てけるに蔦岳よりこれを見て「猫城に事出で来たり。駆けつけよ」とて、吉田少輔六郎貞永・占部下総貞康・石松源次郎貞次・小樋対馬を先として蔦岳を打ち出、一騎駆けにぞ馳せたりける。
朝木縄手に着きしかば、城中に力を付けんため、先ず鯨波をぞ上げにける。鎮実、これを見て「蔦岳より大勢後ろ攻めするぞ。此方は小勢なれば取り籠められては叶うまじ。木屋瀬に引き取れ」とて、鎮実自身、後殿して引き退くところを、吉田・占部・小樋・石松・城中の勢と一つに成り合いて千五百余人にて追い掛けたり。
鎮実、今許斐・川端にて取って返し、火出ずるほど戦いけれども、小勢といい殊に靡き立てたることなれば一太刀打てば引き退く。一槍突けば引き退く。宗像勢は勝ちに乗り、川中に追いはめて二百人ばかり打ち取りける。
この川、もとより大河にあらざれども五月雨に水増し、胸板の浸かるばかりにぞありける。毛利鎮実が勢は手負いをも助けず、川を越えて敗北す。宗像勢、続いて川を渡り追いかけしかば、鎮実も危うく見えけるを、義を守る士ども、鎮実を押し隔て七,八人討死しける間に虎口を逃れて永満寺まで引き取りけり。
宗像が士は勝ち軍してそのまま蔦岳に引き上ぐる。鎮実が相図相違して、ただ一時に敗軍しければ、戸次道雪も西郷より立花へ引き返されけり。宗像家士にて城廃せり。
嫗屋敷
村の東北一町ばかり、底井野屋敷という處あり。昔この村に老媼あり。農業を力む。その頃まではこの辺りすべて海浜なりしが、嫗、一日登天の業をなすとて、葦原に髙棚を設けその上に上がりければ、老幼雑沓を乗り見る者多し。嫗曰く「今日は悪日なり。明日登らん」とて、止む事数度、日を重ぬるうちに芦場、自ずから平地となり、開墾の基なりぬ。この所、即ち嫗の宅址なりと云う。
黒田長政別墅址
元和中(1615-24)、黒田長政、薬師山の西に初めて別館を営み建て、遊猟の地とせらると云う。今、村の北一町に梅園という所あり。此所なるべし。長政つねにこの地の蓮根を行厨の用に充てられしと云い伝う。今も池沼ところどころに蓮を多く植う。(現在、池は底井野小の運動場になっている)
正応寺址
村の東にあり。小松山治承院正応寺と号す。小松内府重盛公、治承年中(1177-81)開基の寺という。今、人家一戸ありて、字を正応寺という。正覚寺も、もと此所にありしか。寺号を改めて御畑に移せり。
石仏
村の東五町。垣生村界松山の上にあり。髙三尺ばかりの石あり。四面に仏像を刻めり。地名をも石仏という。由来不詳。
〇人物
良民一人
久作は上底井野村の産なり。後に吉田村に移り住めり。壮年の頃、官の仰せを蒙り、本城村の潮干・黒崎の干潟を開発し、百余町の新田を作りし時、格別の働きありしに依りて賞せられ、黒崎新田の内、田数三反五畝を賜う。今年明和三年(1766)三月なりき。
しかりしのち、また、遠鞍嘉穂四郡の水災を除らるべきため、寛延三年(1750)より吉田村の岩山を鑿ち堀りて河とせらる。依りて久作に普請夫つかいのことを宰判せしめられぬ。大造りのことなれば、寛延三年より事を起こし、宝暦九年(1759)に至り、十年の久しきを経てその功なれり。
然るに、岡川より新堀川に水を分かつべき所に汷(シュウ:水を運ぶ施設)しがたかりしを、「中間村の惣社山の小石を切り通し、水門を構えば万代不朽ならん」と見定め、宝暦十二年午春、唐戸を仕居シオリ、堀川すべて成就し莫大の国益となりしかば、久作の功を賞せられ、長く「堀川受持通船改方」をも命ぜられ、子孫今に到りて猶しかり。 ※大正初期の堀川と中間唐戸の様子https://kanto-seikyokai.jp/
久作の人となりは、貞実にして勤に怠らず。堀川普請の後も専ら用達せし中に、開作になるべき地所見分のため、郡宰(郡奉行)の代わりとして廻郷せしめられたる。その時の書類、彼家に伝えたり。今の普請才判役はこの久作を初とすとかや【『筑紫遺愛集』を按ずるに、久作が賜田を本書は五畝に作る。その子孫の家に伝えるところの文書には三反五畝とす。因りて本文を改む】
6.附記:物産
一 米 千七百八十石 生出
一 麦 百二十石
一 大豆 三十五石
一 小豆 九斗
一 豌豆 五石
一 唐豆 十石五斗
一 粟 三石
一 鶏 二百羽
一 鶏卵 四千
一 蓮根 八十丸 輸出 ※1丸は、50斤=30kg
此代金 二十円
一 鶏卵 二千五百
此代金 十二円五十銭
一 櫨実 二千五百斤
此代金 二十五円
一 菜種 十四石六斗
此代金 百五十四円九十八銭
一 瓦 一万八千枚 小田 忠次 製
此代金 九十円
一 酒 八十石 藤田 治七 製
此代金 四百円
一 酢 三石四斗
此代金 三百円
一 醤油 六十石 小田清七 一田惣三郎 製
此代金 三百円
一 種油 五十石 永富 伝蔵 製
此代金 千二百五十円
総計 金 千二百六十六円円八銭
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