よほどの勉強嫌いでない限り、「壇ノ浦合戦」を聞いたことがない人は少ないのではないか。中学校の歴史教科書にも載っているし、源義経が仇敵平家を関門海峡に屠る場面は、日本史上有数のクライマックスとして、古くは鎌倉時代に成立した「平家物語」から2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」まで、飽きることなく語られてきた。
ところが先週、私が勤めている中学校の授業で、「壇ノ浦合戦を知っている人」と挙手を求めたら、二人しか手が上がらなかった。多分恥ずかしがっただけとは思うが、いささか心許なく思ったので、読者の煩わしさを覚悟のうえで、この合戦の経緯を通説によりながらかいつまんで説明させていただく。
文治元年(1185)、讃岐国屋島の陣を義経に落とされた平宗盛ら平家の首脳陣は、長門国彦島の平知盛の軍勢に合流する。平家の金城湯池であった九州だが、すでに大宰少弐原田種直らは源範頼の関東御家人オールスターズの軍門に降り、平宗盛・知盛兄弟は彦島に孤立していた。頼朝は安徳天皇を迎え三種の神器の無事に返還させるために長期の包囲を大戦略としていたが、義経は急追をやめず、同年3月24日、壇ノ浦で矢合わせとなった。
熊野水軍や近畿・四国の衆を主力とする源義経の兵船八百艘に対し、平家は五百艘と劣勢であったが、海の豪族ともいうべき平家は地の利と海上戦の練度において源氏を優越しており、勝敗は混沌としていた。
先に主導権を握ったのは平家である。山鹿兵藤次秀遠が三百艘で先陣を務め、潮流に乗って義経をあと一歩の所まで追い詰める。しかし、潮流や四国勢の裏切り、水夫を射るという義経の機略などにより形勢は逆転、安徳天皇始め平家一門は関門海峡に身を投げて滅亡する。
おなじみの話で恐縮だが、昨年、私は久々に平家物語のこの章段を読み返して一驚した。義経を追い詰めた山鹿兵藤次麾下の人々は、なんと私が居住する八幡西区近辺の人々ではないか。山鹿秀遠を大学の卒論で扱ったので、芦屋や山鹿城をバイクに乗って周遊したはずなのに、まるでピンときていなかった。自分のぼんくらぶりが恥ずかしい。
山鹿兵藤次秀遠の生死は平家物語や吾妻鏡にまったく記載されていないので不明とするしかないが、「麻生文書」には山鹿庄に隠れ住んでいたとする記述がある。また、鎌倉から戦国期にかけて活躍する「頴田氏・香月氏」は山鹿兵藤次の一族であったという。無論、家系伝説であり史料と呼べるようなものではないが、郷土の歴史の奥深さに直面させられる。
通勤・買い物の折にいやでも目にする山や川、丘や道には、まだまだ未知のこと、面白いことが眠っている。齢六十を過ぎていささか遅すぎるスタートではあるが、「麻生文書」を切り口として、いにしえの八幡西区周辺に、どのような人が、どのような生き方をしていたか、遅鈍を気にせずにわずかでも勉強してみたいと思い、この稿を書き始めた次第である。
できあがるのに何年かかるかわからないが、「いにしえの北九州」に少しでも興味がある方の参考にになるならば、最高の幸せである。
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