ー「宝治合戦」と「建長大火」の影響ー
【はじめに】
麻生氏は関東から下向したいわゆる「関東下り衆」の一氏族である。平家滅亡直後に源頼朝・政子・北条義時の地頭代として関東御領・得宗領の経営に参加、南北朝期には足利尊氏とともに新田・楠を湊川に破り、以後、室町将軍のもとで奉公衆を務め、戦国期には大内氏傘下で国衆筆頭となるなど、北部九州屈指の有力武士団として活躍した。遠賀郡の中世史はこの氏族の歴史が根幹をなしている。
しかし、鎌倉時代の麻生氏の史料はわずかに安堵状3通に過ぎない。
本稿ではこの『麻生文書』所収の3通からわかることを、北九州歴史博物館が平成13年に発行した『中世史料集 筑前麻生文書』の解説を紹介しながら、各文書が出された年に京都・鎌倉や麻生庄の近隣で起こったことを並べて、鎌倉時代の遠賀郡の空気を吸ってみたい。
【麻生文書1号 建長元年(1249) 北条時頼袖判下文】
【書き下し】
(北条時頼花押)
下す 小二郎兵衛尉(麻生)資時
早く筑前国山鹿庄内麻生庄・野面庄・ 上津役郷三箇所地頭職代と為さしむべき事
右の人、親父二郎入道西念の今月日譲状に任せ、彼職として沙汰を致さしむべき状くだんの如し
建長元年六月二十六日
袖に推された花押は、北条時頼のもの。これにより、山鹿庄の正式の地頭職が北条氏の手にあったこと、その地頭代に任じられた山鹿(麻生)資時が北条氏の被官であったことが分かる。
『尊卑分脈』では、「資時」は「時家の次男」、「家長の弟」としてみえ、「鹿生」の姓が与えられているが、これはもちろん麻生の誤りである。山鹿庄の地頭代職の多くは、山鹿家長が父時家=西念から受け継ぎ、山鹿庄内の一部である麻生庄などが資時に譲られたものであろう。
山鹿庄は遠賀郡内山鹿郷の郷名を負ったもので、内部には麻生庄などの荘園公領を含みながら郷荘として成立していたことが分かる。麻生庄は戸畑から枝光にかかる付近に広がっていたと考えられている。
【尊卑文脈麻生系図】
宝治合戦
ちなみに建長元年(1249)は宝治合戦(1247)の2年後である。
この戦いで安達景盛(盛長の子)らは、若き執権時頼の和睦の意向に反して三浦氏を奇襲し、さらに北条氏を巻き込んで三浦屋敷に火をかけた。
敗れた三浦泰盛(義村の子)以下一族郎党500名は法華堂(頼朝の墓所)において自刃し、幕府ナンバー2の実力を誇った三浦氏の勢力は大きく後退する。
(左は法華堂近くの三浦氏のやぐら《墓》)
【建長大火】
文書発給の5ヶ月前の宝治5年(1249)2月1日、京都では、里内裏となっていた閑院が焼失した(閑院火災)。これを受けて年号が建長に改元される。しかし、改元からわずか5日後に洛中の主要部(三条・西洞院・八条・東京極を囲む一帯)を焼き、さらに鴨川対岸の蓮華王院まで焼失する大火災が発生している(建長大火)。
九条家・三条家・西園寺家など、遠賀郡近辺に所領をもつ貴族も軒並み被災したと思われ、その復興費用は遠賀郡近隣の荘園にも重くのしかかったはずである。
【時頼の政治改革】
北条時頼は御家人や有力な北条一族を弾圧して得宗権力の拡大を図り、執権独裁の政治を行ったといわれてきた。たしかに、宮騒動(寛元の政変)で名越光時を失脚させ、前将軍頼経を京に追放し、宝治合戦においては安達氏と連合して三浦氏を亡ぼすなど、その方向性は否定できない。
しかし、細かく見るならば、重要な決断は時頼与党の御家人や北条一族、得宗被官との合議(深秘の沙汰)でくだされ、宝治合戦においては時頼の威光を無視して三浦氏を攻撃する安達氏を掣肘することができなかったなど、その勢威は盤石とはいえず、独裁というより寡頭制に近かった。
また評定衆の下に引付衆を設置し、訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3か月に短縮したりするなど御家人との融和政策を採用した。さらに、庶民に対しても救済政策を採るなどして積極的に保護する方向を打ち出している。摂関家や源氏一門、大豪族にくらべれば、家柄が低く血統だけでは自らの権力の正統性を欠く北条氏は、度重なる飢饉や大火に苦しむ人々への撫民・善政(徳政)を強調し標榜することで、支配の正統性を得ようとしたのだろう。
宝治合戦・建長大火の後の復興や時頼の政治改革などで、幕府・六波羅はこの時期大わらわであったであろうことは容易に想像できる。その中にあって得宗被官として3代にわたる山鹿氏の存在は、時頼ら幕府首脳にとって心強いものであったに違いない。
【三浦氏の没落と宗像氏の反撃】
遠賀郡近隣に目を向けてみると、宗像郡では宗像氏経が1231年に所領所職を息子の氏業に譲り、さらに1236年に大宮司職を辞職している。しかし、この年(1249)、再び還補し、同年中にまた大宮司職を氏業に譲っている。このめまぐるしい交替は三浦氏との相論が関係していると思われる。
宗像社領は承久の乱後,「将軍家御領」となり,預所は三浦常村であった(石井進「九州諸国における北条氏所領の研究」,『石井進著作集』五)。三浦氏は義村・光村など,「村」を通字とする。常村も一族であろう。
宗像大宮司(氏経・氏業)は,建長年間、二度にわたり綱首謝国開(小呂島地頭として有名な謝国名の子)や三原種延を訴えた。その背景には宝治合戦による三浦一族,および前預所代(三浦)常村の没落がある。宗像大宮司は三浦一族の没落を好機ととらえ、反撃に出たのである。(服部英雄「博多の海の暗黙知・唐房の消長と在日宋人のアイデンティティ」)
※ その後「小呂島」は宗像社領と認められた。
【山鹿・麻生氏の朝鮮交易航路予想図】
宗像郡神湊からは、水平線上に小呂の島は見えるが、沖ノ島は見えない。当時の航海術では島影が見えない海は航行できないと言ってよく、宗像氏は博多に寄ることなく、小呂の島を中継点に対馬に渡り、そこから朝鮮半島を目指したと思われる。沖ノ島は風や対馬海流に流された時のバックアップであり、それゆえに神の島として海の民の崇敬を集めたのである。
山鹿氏は海の豪族であり、大陸や朝鮮半島との交易を業としていたことに疑いはない。だが、地理的に宗像の勢力下の海路を利用するしかなく、宗像も近畿に上るには麻生の海を通るしかない。両者は一蓮托生の関係にあるといってよく、宗像氏の三浦氏への反撃は、得宗被官麻生氏にとっても利のある行動と映ったであろう。
【小まとめ1】 麻生資時が父の地頭代職を相続した時、
1.京都の大火からの復興のため、遠賀郡の近隣でも公家寺社領に臨時税が課せられたと思われる。山鹿氏の「山鹿庄」も九条家の領地であり、例外ではなかったであろう。
2.二年前の宝治合戦により三浦氏の影響力が低下したため、宗像氏は預所の三浦氏とつながりのある博多綱首の謝氏を相手取って訴訟を起こした。
幕府は訴えを認め、宗像氏による「小呂の島」の領有を認めた。主の北条氏と犬猿の仲である三浦氏の撤退は、山鹿氏にとっても幸いであり、朝鮮との交易は有利になったであろう。
3.京都の大火や宝治合戦、政治改革などの混乱の中にあって、父祖義時からの被官である山鹿氏の存在は、若き執権北条時頼や幕府首脳にとって、心強い存在であったに違いない。
【山鹿城遠景】
平安末、壇ノ浦合戦で平家は滅亡し、主要な与党で山鹿城主の山鹿兵藤次秀遠は没落した。
そのあとすぐに、宇都宮左衛門尉家政が入部し、山鹿氏を名乗った。山鹿氏総領家は南北朝期に没落するが、室町から戦国時代にかけて、庶流の麻生氏が大内・大友・毛利氏を転々としながら、戦国末期まで遠賀郡の「帆柱城・花尾城・山鹿城」を拠点として勢力を維持した。
天正15年(1587年)、麻生氏の筑後移封により3城とも廃城。
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