福岡県地理全誌巻之五十 (第五大区) 遠賀郡之十二
【二十七小区二村之内】戸畑(とばた)村
1.戸畑村概説
【西南】福岡県庁道程十七里十三町【東、豊前国小倉一里十八町。海上一里二十八町。長門国赤間関五里。北、同国蓋覆島七里。東北、同国六連島三里。同国福浦三里。同国南風泊三里】
彊域 東、中原村【二十一町】。南、枝光村【三十四町余。間道十五町】。西若松村【海上三町余】。北、海に接し、人家は本村【町立、東西長百六十六間。町方、新町・石原・北牟田・堀、二百二戸】。天頼寺【五十八戸】。三六【五戸】・牧山【三戸】、四所にあり。
「戸畑」は『風土記』には「鳥旗」とかき、『万葉集』には飛幡とかけり。名義は岬戸の端にあれば門旗の義なるべし【伊藤常足云く「或る説に鳥羽は泊場の意なり。故に必ず船の泊まる處に負わせたりと云えり。山城国鳥羽、志摩国鳥羽など船に由あり。されば此所も泊場田の義なるべし。】
村の南潮井崎に、天明六年(1786)丙午、石垣東西七十三間、南北二百四間を築き、新田、田反別四町八畝二十一歩を開く【村民林某の自費に出ず】
村位、下。地形、南に高し。運送の便、上【豊前国小倉官道一里七町】。土質、東南六分赤真土、西北四分沙小石交じり、七分乾地三分湿地。地味、下。田は中晩稲・麦・菜種。畑は、麦・菜種・大豆・蕎麦・綿・大根等を作る。旱患あり。此村、農漁雑居、主をなす。漁家三十二戸。網数九十三張【鯛網一張・小鯛網十一張・雜魚網十張・藻玉鮫網九張・鮬セイゴ網三十二張・底立網三十張】。漁場【若松・脇田・脇浦等の海上を借る】。土産、海魚・海藻・生蠟。
2.戸口・田圃・山林・橋梁
○戸口
一 戸数 二百六十九戸
内
一 士族 一戸
一 僧 一戸
一 平民 二百六十七戸
一 口数 一千二百五十口
内
一 男 六百三十七口
一 女 六百十三口
【職分】医術【男二人】、農【男二百九十六人、女二百六十一人】。工【男十人】。商【男九人、女六人】、雑業【男八十四人、女九十七人】。雇人【男三人、女六人】
○田圃
一 田畑段別 百六十七町五段一畝十歩
此石高 一千二百四十四石八斗八升一合
内
一 田段別 七十二町六段三畝十七歩
此石高 八百四十五石四升三合
一 畑段別 七十五町八段三歩
此石高 三百九十九石八斗三升八合
一 大縄田畑段別 十九町五段七畝二十歩
○租税
一 米大豆 四百六十石八斗五升一合 正租
此代金 一千三百八十一円十五銭二厘
内
一 米 三百三十七石三斗六升七合
此代金 八百九十六円十三銭四厘
一 大豆 百二十三石四斗八升四合
此代金 四百八十五円五一銭八厘
一 米大豆 十三石八斗二升六合 雜税
此代金 四十一円四十三銭六厘
内
一 口米 十石一斗二升一合
此代金 十六円八十八銭四厘
一 口大豆 三石七斗五合
此代金 十四円五十五銭二厘
一 金 四円八十一銭六厘
○山林
一 山段別 四十八町五段四畝二十歩
内
一 三十二町三段一畝九歩 官林
一 二町歩 元拝領山
一 十三町四段七畝一歩 元証文山
一 七段五畝歩 元預山
一 一畝歩 社山
3.橋梁・池塘・牛馬・船舶・学校
○橋梁
一橋 五所
一 板橋一所【苧漕川筋潮井崎 官費】 長五間三尺二寸 幅一間
一 土橋一所【同川筋大槁ケヤキ 同上】 長五間 幅一間三尺二寸
一 同 一所【一徳溝筋一徳 同上】 長二間 幅一間
一 同 一所【苧漕川筋猿渡 同上】 同上
一 同 一所【猪坂池溝筋桶田 同上】 同上
○池塘
内
一 一所【浅生 官費】 水面一町歩 水掛田十四町三反歩
寛文七年(1667)丁未築立
一 一所【猪坂 官費】 水面三反歩 水掛田六四町二反歩
寛文十二年(1672)壬子築立
一 一所【牧山 官費】 水面二反五畝歩 水掛田二町五反歩
明和八年(1771)辛卯築立
一 一所【藤九郎谷 官費】 水面一反五畝歩 水掛田二町歩
一 一所【夜宮 官費】 水面三反歩 水掛田二町歩
以上二所 文化十三年(1816)乙亥築立
一 一所【千坊 官費】 水面五反歩 水掛田二町五畝歩
天保十三年(1842)壬寅築立
一 一所【五反田 官費】 水面六反歩 水掛田五町五反歩
文久二年(1862)壬戌築立
一 一所【叚上 西池 民費】 水面一畝歩 水掛田一反歩
一 一所【叚上 東池 同上】 水面一畝四歩 水掛田二反歩
一 一所【小澤見コゾミ 官費】 水面六反歩 水掛田五町五反歩
一【当村 抱中 原村 催合】一所【澤見ソウミ 同上】 水面一町三反歩 水掛田六町歩
一 一所【巡メグリ坂 同上】 水面三反歩 水掛田一町六反歩
一 一所【尼堤アマヅツミ 同上】 水面四反歩 水掛田一町歩
一 一所【曲 同上】 水面六反歩 水掛田三町六反歩
以上七所、築立年不詳
○牛馬
一 牛 百十九頭
内
一 牡 四十八 頭
一 牝 七十一 頭
一 馬 十五 頭
内
一 牡 十一 頭
一 牝 四 頭
○船舶
一 漁船 三十四 隻
○学校
一 小学校【本村】
生徒六十五人
内
一 男 五十七人
一 女 八人
4.原野・岬角・嶋嶼
○原野
一 小澤見野コゾミノ
村の東南九町にありて、中原村に界えり。四方三町、小松草立なり。
○岬角
名護屋崎
村の東北十三町にあり【勝地の條にあり】。
○嶋嶼
河(白斗)嶋カバシマ
村の西北、若松との間、海汀を去ること一町ばかりにあり。故に俗に中嶋と云う。南北百四十五間、東西五十間、周囲三百五十間あり。
『筑前風土記』に曰く、「鳥旗海中に両小嶋あり。一は河(白斗)嶋と云う。支子クチナシを生ず。海に鰒魚アワビを生ず。その一は資波嶋シバシマと曰う。両島共に鳥葛・冬菫を生ず【鳥葛は黒葛なり。冬菫ショウガは迂菜なり】とあり。この産物今はなし。資波島は若松村に属せり。
都嶋
村の西南、六町にあり。東西五十間、南北三十三間。
鼠嶋
村の西南、十二町にあり。東西十五間、南北三十三間。岩嶋にて松二,三株立てり。近年具邉の地を開き陸より続けり。
生海鼠タワラゴ嶋
村の西南、七町にあり。昔は小嶋なりしが、近世漸く崩れて、今は潮干に十坪ばかりの岩、現れ見ゆるのみ。
5.神社・仏寺・勝地・古蹟
○神社
(村社)八幡宮【本殿二間四面 拝殿横四間入二間 石鳥居一基 社地四百八十坪 氏子二百四十八戸】
本村にあり。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。祭日は八月十五日。天正七年(1579)己卯、枝光村より迎え祭る。
【写真は飛幡八幡宮拝殿】
摂社二。名護屋神社【名護屋崎にあり。祭神は猿田彦命。宝永二年(1705)立つ。里説に、仲哀天皇西幸の時、此所に千引チビキの岩とてあり。西北の波に流るる事、十余町なりければ海路の危うからんことを慮りたまい、岐神フナドノガミを明神と崇め祭りたまいて海路のことを祈りたまえり。備後国鞆浦にもこの大神を祭りたまう。今の渡神社これなり。この神は伊弉諾尊の御子にて、塩土老翁シオツチオジ・大田命オオタノミコト・興玉神オキタマノカミ・事勝国勝長狭神コトカツクニカツナガサノカミとも称す。瓊瓊杵尊ニニギノミコト、この国に降臨ありし時、彦火々出見命ヒコホホデミノミコト、竜宮に趣きたまう時、倭姫命ヤマトヒメノミコト、天照大神のため伊勢国五十鈴の川上を宮所と定めたまう時、皆、この神の導きたまう所なり。彼の千引岩、今、明らかならず。名護屋崎の海中に突出して三十間ばかりなる平面の岩あり。潮干には見ゆ。これなるべし。長の異なるは古今の変、怪しむに足らず】(※千引=千疋=1000×23.5m=23.5km、三十間=30×1.8m=48m)
【名護屋神社】
由緒 仲哀天皇が、現在新日本製鐵の戸畑工場の敷地となっている所にあった名護屋岬を航行するにあたり、その案内をおこなった神を天皇自ら祀ったことに由来すると云われています。大正9年、飛幡八幡宮と合併しこの地に遷座しました。
菅原神社【天頼寺。延宝八年(1680)立つ。此所、古は天頼寺と云う寺あり。里説に、菅公、筑紫に下りたまいし時、此の地にて、日、黄昏に及びければ、この寺に入りて宿を求めたまいしに、住僧、公の体を怪しみて、しぶしぶと鶏鳴を期して宿し参らせ、夜、未だ二更、僅かに眠りを催したまうを、彼の函谷関の昔に倣い、弟子の僧に命じて鶏の声をまねび、鶏を鳴かしめ追い立て参らせしと云う。故に今に至りてもこのあたりに住める民、鶏を畜わず。希に畜う者あれば、形異なるを生ず。又、同書の内に御洗足池と唱うる小池あり。池中に生ずる蛭ヒル、人の血を吸わず。これ、菅公、御足を洗いたまう時、蛭の付きたりしを口留めしたまいし故なりと云う。按ずるに、鶏鳴の故事、河内国土師里にもあり。御笠郡太宰府神社の條に載す】
末社 五
貴船神社【南が原】。須賀神社【社地】。恵比寿神社【同上】。潮井崎神社【潮井崎】。岩根神社【本村、三宅若狭の婦子の霊を祭ると云う】
小社 八所
豊日別神社【大谷】。貴船神社【南が原】。山神社【夜宮】。道祖神社二所【共に本村】。蛭子神社三所【渡場・濱・竹ノ下】。
○仏寺
照養寺 【本堂七間四面、寺地二畝四歩、檀家四百七十六戸】
本村にあり。竹葉山と号す。真宗西派。豊前国田川郡城野村専妙寺末なり。竹内治部と云う士、剃髪して了正と号し、この寺を開けりと云う。永正十二年(1515)乙亥、寺号木仏を許さる。末寺一、妙法寺【則松村】。
小堂四所
観音堂【畑】。地蔵堂【古くは東光寺】。薬師堂二所【木戸・本村】。
○勝地
飛幡浦トビハタウラ
村の西、海汀より若松の渡口までの邊を飛幡浦と云う【八雲御抄に石見にありと云うは誤りなり】。
【万葉集十二】霍公鳥飛幡浦爾敷浪之屡君乎将見因毛鴨
ほととぎす 飛幡の浦に しく波の しばしば君を 見むよしもがも
(霍公鳥が飛ぶ飛幡浦に重なる波のように、しばしば君を見るすべがほしい)
【夫木】白雲の 戸幡の浦の 山風に 空冴え勝る 秋の夜の月 従二位頼氏
(白雲の戸畑の浦の山風と読まれていたのに、空の秋の夜の月はとても澄んで見えることよ)
名護屋崎
村の東北の海中に斗出せる(つきだした)洲崎なり【伊藤常足云く、名義は魚籠の意か。魚木屋にもあるべし】。人家より岬まで十三町余。小松植えてり。真北は海を隔て長門国の嶋々に対して佳境なり。日本紀仲哀天皇紀に「八年春正月、己卯朔壬午、筑紫に幸す時、岡縣主の祖の熊鰐、天皇の車駕(が来るのを)聞き云々。奏して曰く「穴門より向津野大濟オオワタリに至るを東門となし、名籠屋大濟を以て西門となす。限沒利嶋・阿閉嶋を限って御筥ミハコとし、柴嶋を割りて御甂ミナヘと為し、逆見の海を以て塩地と為す」とあり。名護屋大濟すなわちこの海辺の事なり。大濟とは海を隔て相対える土地の遙かに遠ければ名づけたるなり。【青柳種信云く「向津野大濟は今周防国にある向津野の邊を云うなるべし。大濟とは岬より向かいの地に濟る渡口を云えり。周防国陶崎などの岬の豊前の地に近く指し出たる所を云えるならん。この大濟はこの岬より長門の嶋々に指し出たる海を云いて、東西共に地理のさまよく似たり。故に東西の大濟は対句にして、詞花を飾りたる古言なり。『続風土記』に大濟川をここに挙げしかども、『日本紀』の大濟とは別なり。混ずべからず」。今按ずるに、向津大濟は長門国大津郡にあり。豊田郡の嶋戸にむかいその間、入海あり】。没利嶋【長門国にあり。今は六連嶋と云う】。阿閉嶋【豊前国藍島なり】。柴嶋【白嶋なり】。逆見海【岩屋浦にあり】。皆、此の地に遠からぬ所なり。
洞海クキノウミ
若松村より芦屋村に至るまでの入海をすべて洞海と云う。その間、東西の長さ五里、南北の広さ二十町、狭き所は六十間、もっとも狭き所は四、五間に過ぎず。大船は通らず。蜑住村より高須村の間の狭き所を江川と云う。『仲哀天皇紀』に「皇后、別船にて洞海より之に入る【洞、これを久岐と云う】」、『風土記』に「塢舸縣オカノアガタの東側、近くに大江口あり。名づけて塢舸水門オカノミナトと曰う。大船を容れるに堪う。從彼通カヨウ嶋、鳥旗澳トオタオキ、名づけて岫門クキトと云う。小船を容るに堪う【鳥旗は烏多也。岫門は久岐クキトなり。今、按ずるに鳥多の間に羽の字を漏らせり】」など見えたり。久岐と云う名は、此所より岡湊び方に漏出るによりて負わせたりと聞こゆ。大江口とは、この村と若松との間の入海を云う。塢舸水門はこの入海をすべて云える名なり。【凡そ甚だしき寒気の時、大川は氷れども海は氷らざるに、慶長年中に一度、寛永年中に一度、この水、氷りし事あり。又、天和三年十一月晦日より雪降り、師走月の四・五日まで寒気烈しき時、何れの川も皆氷るに、この川も氷りて、船の往来絶えたり。此所、入海なれど、遠賀川の水も此に出でて、鹹淡相交じれり。故に川とひとしく氷れるなり。按ずるに、今は芦屋のみ岡水門といえども、上に引きける『風土記』の文を考えれば、広くこの邊をさして云うと見えたり】。この海の東北の入口、左は垣前郷、右はすべて山鹿郷。二嶋村より猪熊村までの間、左の方は埴生郷なるべし。その縁辺の村々、陸地の方、東より西へは、戸畑・尾倉・枝光・前田・藤田・熊手・陣原・本城・塩屋・小敷・浅川の十一村は南岸にあり。若松・修多羅・藤木・二島・払川・蜑住・大鳥居・高須の八村は北岸嶋郷にあり。神功皇后の通らせたまいし地なれば、豊臣太閤も名護屋へ下られし時、その跡を慕い此所を過ぎられしと言い伝えり。
6.附記(物産)
○附記
物産
一 米 一千百五十五石 生出
一 麦 二百八十石
一 大豆 八十二石
一 豌豆 十五石
一 唐豆 五石
一 栗 一石五斗
一 蕎麦 百二十石
一 琉球芋 一万斤
一 大根 二十万本
一 瓜 千
一 西瓜 二千
一 茄子 一万五千
一 山芋 六百本
一 桃 八千
一 梨子 五百
一 柳 三千
一 梅 一石八斗
一 橙 五千
一 椎 二斗
一 綿 百二十貫目
一 茶 一貫目
一 煙草 五貫目
一 紅花 二貫目
一 鶏 二百羽
一 鶏卵 三千五百
一 家鴨 五十羽
一 家鴨卵 千
一 海鼠 九千
一 烏賊 三百
一 飯蛸 八百
一 鰍イナ 三千
一 針魚サヨリ 一千百
一 河豚 三百
一 アサリ貝 三斗
一 昆布海苔 十斤
一 イギス 百八十七斤 ※イギス:海藻、寒天やところてんの原料
此の代金 十八円
一 琉球芋 六千斤 輸出
此代金 十八円
一 大根 十二万本
此代金 七十二円
一 鯛 五千四百尾
此代金 三百五十一円
一 鰡ボラ 七万八百
此代金 二百三十四円
一 尨魚チンダイ 一万五千八百尾
此代金 百八十九円六十銭
一 鮬タナゴ 一万六千四百
此代金 九十八円四十銭
一 雑魚
此代金 百六十円
一 藻玉 九百四十尾
此代金 六十七円六十八銭
一 櫨実 六千斤
此代金 六十円
一 菜種 二十石
此代金 四十一円七十六銭
一 酒 六十八石 【柄本文三郎製】
此代金 四百八円
一 醤油 七十石二斗 【大森榮八製】
此代金 四百十四円二十二銭一厘
一 種油 四石
此代金 百四円 【楠本三十九郎製】
一 生蝋 二百八十斤 【同上】
此代金 三十六円九十六銭
総計 金 二千三百九十六円二銭一銭
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