1-4.随筆 一品房昌寛   

鎌倉記事

 妻は極度の恐がり屋である。定年後、夫婦二人でテレビドラマを見るはめになってしまったのだが、事件・事故・暴力・戦争シーンはNG。いきおいラブコメや詐欺裁判ものに視聴がかたよる。おかげで「莫大な財産をめぐる親族の相克」という古典的テーマが現在も生きていることを知ることができた。
 今も昔も財産管理は大変だ。信頼できる管理者がいなければいつ詐欺・横領にあうかわかったものではない(我が家にそんなものはないから安心だが)。
 坂東武士の鑑とされる畠山重忠は「よき管理人がいないなら苦労が増えるだけ。それなら恩賞地などもらわない方がいい」と言ったという。識字率が低い中世、荘園領主たちは信頼できる管理者を見いだすのに大いに苦労したようだ。
 旧遠賀郡は平家滅亡後に没官領となり源頼朝が地頭になった。無論頼朝が鎌倉から下向して直接年貢の徴収を行うことはない。京都で下級官人をスカウトするか、事務ができる御家人(ほとんどいないが)を鎌倉から派遣するか、あるいはかつての平家家人を現地雇用するかして、代理人(地頭代)に領地を管理させる。しかし中世の武士は誇り高く気が荒い。土地の権益も入り組んでおり、各人が努力すればするほど紛争は激しくなる。京都の公家たちからは「うちの年貢がまだ届いてへん。御家人とかいう輩が妨害してるんやと。鎌倉は何してんのや?」とクレームが入り、頼朝から「何とかせよ」と譴責文書が送られてくる。このような状況下で平家最大与党の一人、山鹿秀遠跡の管理を任されたのが一品房昌寛である。
 
 

 一品房昌寛は頼朝の重要な側近文士(武士ではない御家人)である。源範頼の九州派遣軍に名を連ね、文官としては草創期の幕府の代表として後白河政権との交渉に当たった。

 吾妻鏡に御祈師とあり、成勝寺執行を務めているので僧体の御家人であったろう。

 「一品房」を名乗るがさして高い身分ではない。『尊卑分脈』は高階氏の出身、宇都宮氏の縁者であったとする。あるいは内裏の隣で貴重な本を筆写収蔵していた「一本御書所」の職員を履歴とするのかもしれない。

 平治物語には後白河は御所の隣の「一品(本)御書所」に幽閉されたとあり、小説家なら「頼朝-昌寛-後白河」の接点を見出すだろう。 


しかしこの有能な管理人は、公家との交渉や大仏開眼、平泉討伐の院宣取得などあまりに多忙で、現地で業務をこなす時間がほとんどなかった。麻生系図には筑前国山鹿庄に下向していた宇都宮(山鹿)家政を養子として所領を譲ったとある。
 建久六年(一一九五)を最後に昌寛は史料から姿を消すが、彼の一族に関する記録は、男子がいなかったのか、娘の事績以外見いだせない。娘は第二代将軍源頼家の側室となり、三男栄実、四男禅暁を産んだ。頼家の横死後、三浦義村の弟三浦胤義と再婚したが、胤義は承久の乱で上皇側の主力として奮戦し敗れて自害した。栄実、禅暁も後に北条氏への謀反を企てて敗死したとされる。その後、昌寛の娘がどんな人生を歩んだかを語る史料はないが、彼女の周りには三浦氏の滅亡(宝治合戦)など災厄が続く。明るかったとは思えない。
 頼朝の遺領は、妻政子から北条義時・高野山金剛三昧院を経由して北条得宗家に引き継がれる。昌寛から所領を譲られた山鹿氏がその後どのような活動をしたかははっきりしない。同氏の庶家麻生氏が執権時頼・時宗から地頭代職の安堵を受けた下文写が三通残るのみである。

 ところが昭和二年(一九二七)芦屋の法輪寺の西の谷から、高さ14cmの銅製経筒が発見された。鎌倉時代末期の徳治三年(一三〇八)の銘文で、「母なる清浄覚尼が関東御曹司千寿御前の百日忌の供養として妙法蓮華経を写して納めた」とある。
 千寿御前とは、将軍・源頼家の子で非業の最後を遂げた栄実のことである。
 没後百年近い時を超えて千寿丸(栄実)を供養した人が誰であったのか知るすべはないが、一品房昌寛の所領管理者は、まちがいなく昌寛の縁者を守り通したのである。武者の世の鎌倉時代にも心温かいドラマは存在するらしい。

【法輪寺銅製経筒】芦屋民俗歴史資料館蔵                  

 
                        

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