福岡県地理全誌巻之四十五 (第五大区) 遠賀郡之七
【十五小区二村之内】畑(はた)村
1.香月村概説
【西南】福岡県庁道程十三里二十町余
彊域 東、大蔵村【二里二十八町】・豊前国企救郡田代村【一里十八町】・同国同郡合馬村【二里十八町】。南鞍手郡上頓野村【二里】西南、同郡金剛村【二十四町】・西馬場山村【十五町】・香月村【二十町】。北、小嶺村【十八町】・上上津役村【一里】に接し、人家は、本村【二十三戸】、中畑【二十戸】、奥畑【隠館カクレヤカタ・黒木・大場床・大鋸畑 十一戸】、白木【十七戸】、草木谷【四戸】、田床【五戸】の六所にあり。東西一里二十町余、南北一里余。官道の南の谷中にありて、豊前国と高山を以て境とす。東南北三方皆山にて、西一方少し平地あり。古は香月畑と称して、香月村の内なりしが、後に分かれたり。村位中。地形険阻。運送の便下【黒崎駅官道十五町】。土質、北赤土、余は皆青土小石交じり。乾地。地味中。田は早稲、麦。畑は麦、豆等を作し、山間の田多く、寒落の患あり。魚塩乏し。土産、椎茸、紙、葛、柿、生蝋、材木。
2.戸口・田圃・租税・山林
○戸口
一 戸数 七十九戸
平民
一 口数 四百一口
内
一 男 二百八十六口
一 女 百八十五口
【職分】農【男百十五人、女百六人】。工【男三人】。雑業【男四人、女二人】。雇人【男十二人、女四人】
○田圃
一 田畑段別 二十三町九段二畝六歩五厘
此石高 百四十二石四斗九升三合
内
一 田段別 十五町七段八畝四歩七厘
此石高 二百二十一石六斗八升五勺
一 畑段別 三町四段八畝二十七歩三厘
此石高 二十石八斗一升二合五勺
一 大縄田畑段別 四町六段五畝四歩五厘
○租税
一 米大豆 百二十七石一斗八升七合 正租
此代金 三百四十七円七銭八厘
内
一 米 百十九石九斗二升三合
此代金 三百十八円五十四銭七厘
一 大豆 七石二斗六升四合
此代金 二十八円五十三銭一厘
一 米大豆 三石二斗六升六合 雜税
此代金 十円四十一銭三厘
内
一 口米 三石五斗九升八合
此代金 九円五十五銭七厘
一 口大豆 二斗一升八合
此代金 八十五銭六厘
一 金 三円三十三銭
○山林
一 山段別 九十三町三段三畝
内
一 四十九町九段五畝歩 官林
一 十五町四段五畝歩 草山
一 十五町一段九畝歩 野山
一 二町三段三畝十歩 元証文山
一 九町六段四畝歩 元古野山
一 三段五畝歩 社山
一 四段一畝歩 寺山
3.橋梁・牛馬・山岳・河渠・瀑布
○橋梁
一橋 三所
一 土橋一所(畑川筋下川 民費) 長六間 幅一間三尺
一 同 一所(白木川筋小嶺たを 同上) 長六間 幅一間
一 同 一所(同川筋井手口 同上) 長五間 幅一間
○牛馬
一 牛 六十七頭
内
一 牡 十六 頭
一 牝 五十一 頭
一 馬 十六 頭
牡
○山岳
尺岳
村の南にあり。山麓大場床より絶頂へ二十一町四十間。この辺にては最も高山にして、東は豊前国規矩郡合馬村、南は鞍手郡頓野村、西南は同郡金剛村に界えり。従前、彦山の山伏、秋峰と云うに、登りて修法せり。絶頂に尺岳神社あり。日本尊を祭る。
その側に大石あり【高六尺、幅三・四尺】。古老の伝に「日本武尊征西の時、この山に登臨し、この石に寄り添い、御身の長を比べたまいしかば、この石、俄かに縮まりて、御丈よりも尺ばかり低くなれるに因りて尺岳と云い、又、この石を御背比石ミセイクラベイシと呼ぶと云えり【香月家記にも見ゆ】。
高尾山
村の東にあり。鞍手郡上頓野村に界えり。山麓大場床より絶頂へ十二町余。険阻。雑木立なり。
観音山
村の東にあり。東は豊前国規矩郡合馬村、北は同国同郡田代村に界えり。山麓大場床より絶頂へ十七町余。険阻。雑木草立。尾続きに高坪山あり。
○河渠
香月川
水源、村の東南尺の岳・荒谷両所より出で、村の南を過ぎ【この邊では畑川とも云う】、香月・中間両村を経て遠賀川に入る。総計二里二十八町四十三間
村内の長二千七百二十三間、幅平均三間半。平水一尺、満水四尺。清水急流、中間村に至りて緩やかなり。土橋一所【下川】。
○瀑布
音イン瀧
村の東、大場床より十七町ばかり山奥にあり。三段に分かる。一つは長一丈九尺、幅六尺。一つは長三丈五尺、幅四尺。一つは長二丈四尺、幅三尺。一ノ瀧、二ノ瀧、三ノ瀧と称す。水源は音滝谷より出で、流末は香月川に入る。
4.神社・仏寺・古蹟・金鉱迹
○神社
(村社)杉守神社
香月村にあり。
小社 七所
尺岳神社【尺岳の絶頂にあり。小石祠なり。祭神日本武尊。相殿吉備建彦命・大山祇命。祭日八月二十二日】。同下宮【山麓中畑にあり。山上の社と相去ること二十四,五町ばかり。正徳二年(1712)、本社より移し祭る】。佐瀬生神社【下宮社地】。高住神社【黒木】。道祖神社【道祖】。貴船神社【白木】。菅原神社【田床】。
○仏寺
小堂四所
観音堂【音瀧にあり。瞽女観音と称す。いつの頃か、瞽女音瀧に落ちて死す。その霊を祭る。故に眼病を祈るに験ありと云う】。大日堂【古野添】。観音堂【中畑】。馬頭観音堂【上ノ山】。
○古蹟
隠館カクレヤカタ
村の東南、尺岳に登る道の谷間にあり。香月家記に「永正元年(1504)甲子三月、豊後より田原太郎・田北刑部・瓜生左近等、多勢を以て畑城を攻む。香月興則、詰の城隠館に引き籠もる。猫臥岩より上には、敵、近づくことかなわず。豊後勢、攻むる事を得ず。退散すとあるは、即ち此所なり。
香月畑城址
村の南、畑山にあり。戦場田甫と云う所より四町ばかりあり。山谷険阻なり。山上平地三段ばかりの隍ホリの迹、水手の迹のこれり。香月庄司秀則が居城なり。香月氏は世々香月本村に館舎を造りて住みたりしが、秀則が時に源平の乱起こりし故に、城を畑山に築き要害の地とす。平日無事なる時は館舎に居り、軍事あれば畑山の城に入れり。秀則が八代の孫備前守弘考、征西将軍の宮、九国に下向したまいける時、武蔵国の住人勅使河原小三郎と云う者、御供にて下りける。この時弘考に女子のみありて未だ男子なし。勅使河原が子を養いて婿とす。香月五三郎則村と号し、将軍の宮に仕えける。後に市瀬村の城を築きて居城とす。弘考、後に男子出来て兵部少輔頼考と云う。則村が妻の弟なり。畑の城にあり。則村と不和にして市瀬と畑と数度戦いに及べり。然れども畑は弱く市瀬は強くなるによって、家人は多くは市瀬に従いければ、畑城に怺えかねて頼考は大内義弘を頼み周防に行きける。是によりて、香月畑の城、断絶せり。市瀬の城は則村が子義則、麻生氏が婿となって後に麻生を姓とす。市瀬麻生と云うはこの義則が末なり。頼考が孫を香月七郎太夫興則と云う。その前三代は大内の家臣にて山口に居る。文明元年(1469)己丑、大内義興より興則を香月の庄に遣わし、畑の城に新たに家作りて再び香月の家を起こしける。香月家記に、大永二年(1522)辛巳【大永二年は壬午なり。年暦に誤りあるべし】七月二十七日、鷹取の城主毛利宮内少輔鎮廉(※大友方)、多勢を催し畑の城を攻む。城番古川弾正左衛門・香月兵庫助・檜垣大蔵等、能く守る。則考はその頃山口にあり。この由を告ぐるに因りて渡海す。是を聞きて毛利(※鎮廉)も軍を引き入る等載せたるもこの城のことなり。
釈王寺址
観音山音瀧の側にあり。昔、音瀧山釈王寺と云える寺ありしと云う。今も観音堂あり。此所、窮谷の中にあれども、泉石樹竹、愛すべし。幽邃の地なり。
金鉱跡
高尾山の半腹、日ノ尾にあり。嘉永年中(1848-1854)、旧藩にて掘る試みありしかども、金少なくして止む。
5.附記(物産)
○附記
物産
一 米 三百三十石 生出
一 麦 百二十八石三斗一升
一 大豆 二石
一 小豆 一石二斗
一 豌豆 一石
一 唐豆 八斗
一 蕎麦 五石
一 梅 一石
一 柿 十万
一 小栗 六石
一 筍 千把
一 茶 五貫目
一 煙草 百斤
一 鶏 二百四十羽
一 鶏卵 五千二百
一 家鴨 三十五羽
一 家鴨卵 五百
一 蜂蜜 八貫目
一 筍 五百把 輸出
此代金 六円五十銭
一 山菜【山芋・蕨・款冬フキ・葛根・橐吾ツワブキ・獨活ウド】
此代金 八円七十五銭
一 椎茸 九百五斤
此代金 四十五円
一 柿 七万三千五百
此代金 四十四円十銭
一 小栗 五石
此代金 十二円五十銭
一 褚皮 二十斤
此代金 二十七円
一 半紙 五百束 【松山清平・松山兵一製】
此代金 四十五円
一 塵紙 千束 【四戸製】
此代金 四十円
一 鶏卵 二千五百
此代金 十五円
一 家鴨卵 二百五十
此代金 一円五十銭
一 葛 百五十貫目
此代金 二十五円
一 櫨実 四万斤
此代金 四百八十円
一 材木 八百才
此代金 三円二十銭
一 薪 三千八百貫目
此代金 十七円十銭
一 生蝋 五十丸 【加藤清次郎・酒井一郎製】
此代金 五百円
総計 金 千二百八十円六十五銭
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