1-10.『麻生文書』第3号の時代

鎌倉記事

麻生文書3号 文永9年(1272)某下文

【書き下し】
           (花押)
下す 筑前国山鹿庄内麻生庄・野面庄・上津役郷等地頭代職の事、
       藤原(麻生)資氏 
 右の所々亡父資時法師未処分にして 死去せしむと云々。早く亡父知行を 守り、先例に任せ領知すべきの状、件の如し。以て下す
  文永九年四月二十七日

【解説】『中世史料集 筑前麻生文書』(北九州市立歴史博物館、平成13年)
 資時法師が所領未処分のまま死去したとある内容には、ただならぬ気配が感じられる。この年の2月15日、北条時宗の庶兄で六波羅南方探題であった時輔が謀反発覚により誅された(二月騒動)。2号文書の袖判と、ここの袖判の主が替わったのは、あるいはこの事件に関連しているのかも知れない。
  資時もこの時に死去したとも考えられるが、謀反に加担したのであれば、その子である資氏に知行安堵されるはずがない。もし関係していたとしても、討伐側であったとすべきであろう。もちろん、それとは関係なく急死した可能性もある。この袖判の人物も今のところ特定できない。

二月騒動

 文永9年(1272年)2月7日、鎌倉で騒動があり、2月11日、名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王の側近であった中御門実隆が召し禁じられた。     4日後の2月15日、京において前年12月に六波羅探題北方に就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受け、同南方の北条時輔を討伐した。多くの人々が戦闘で死に、前将軍宗尊親王は出家した。なお、北条時輔は逐電したとの説もある。
 間もなく、名越時章に異心はなく誤殺であったとされ、その結果、討手である御内人5人は責任を問われて9月2日、斬首された。時章の子公時は所領を安堵された。討手には罰も賞もなく、人々の笑いものになったという。

【結果】
 時章が持っていた九州の筑後・大隅・肥後の守護職は,時宗の強力な支持者であった安達泰盛・大友頼泰に与えられた。蒙古襲来があれば、九州で最高指揮官となる可能性があった名越家の排除によって、時宗による九州異国警固態勢が強化される結果となった。また京都では、時輔や前将軍宗尊親王の名を借りた反得宗の動きを封じることに成功し、戦時体制(得宗独裁体制)が強化された。

【二月騒動に対する評価】
《網野善彦》(『蒙古襲来』小学館文庫)
・「二月騒動は異国警固の人事問題の幕閣不一致により、御内人の主導で起こった。それが時章誅殺によって解決した後、事態を逆転させて御内人に打撃をあたえつつ、守護職を自身の支持者である有力御家人に配して幕府中枢の実権を一段と強化したのは安達泰盛でありその結果御内人との対立を深めた」

《村井章介》(『北条時宗と蒙古襲来』NHK出版)
・「名分のない殺戮に批判が巻き起こり、慌てて身内(御内人)を犠牲にして取り繕った」
・「時宗は一門内部の粛清によって政敵を葬った一方、政村、実時、弟宗政らの死後は一門内から支えとなる新たな支持者を得る事ができず、元寇の繁忙な時期にも孤独な権力の座にあって政務に追われ、心身をすり減らした」

《細川重男》(『北条氏と鎌倉幕府』 講談社選書メチエ)
・「二月騒動は時宗の独裁政権の確立をもたらした、これによって、時宗は自身が非情な指導者であることを人々に演出した」
・「武家政権を構成する要素の一つである、「恐怖」と「強制力」が発露された事件である」

《河島の感想》
 救国の英雄と呼ばれた「北条時宗」は、14歳(1264)で連署(執権政村)、18歳(1268)で執権(連署政村)に就任する。一族を挙げてバックアップした成果だが、この青年は恐ろしい。目的(元の侵攻から日本を守ること)のためには容赦がない。私は彼の履歴を見る時、時宗が傾倒したという臨済禅の開祖、義玄のこの言葉をいつも思い出すのである。

【『臨済録』より書き下し】
 道流、你(なんじ)、如法に見解を得んと欲すれば、但だ人惑を受くること莫かれ。裏に向かい外に向かって、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得る。物と拘らざれば、透脱自在なり。

【大意】
諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものに束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。

二月騒動と山鹿(麻生)氏

3号文書が山鹿(麻生)資時の「二月騒動」での戦死による相続であったとすれば、次のような情勢が想像される。なお、山鹿氏は北条氏の被官であるが、北条氏の家政機関は幕府のそれに準じていることが多いので、京都・鎌倉の番役システムを参考とした。

ア、資時の参戦は、鎌倉? 京都?
 まず、資氏に地頭代職が安堵されているので「資時」は討伐側である。
 次に、鎌倉番役は原則として遠江以東15カ国の御家人が勤仕する(例外も多いが)ことになっているので、資時は京都にいた可能性が高い。よって、討伐対象は北条時輔である。
 なお、この騒動では近国守護の兵は動いていないようなので、六波羅探題北方の北条義宗の兵(探題被官)として参戦したと思われる。
 北条義宗の花押を見る機会がなく、それを証することはできないが、3号文書の花押は、執権時宗・連署政村のものでないことは確実である。
 鎌倉方面の討手は、後に斬首されたり賞罰なしになって笑われたりしているが、北条時輔は逃亡したという噂はあるにせよ、無罪にはなっていないので、資時戦死により山鹿氏が恩賞にあずかった可能性がある。

イ、山鹿(麻生)氏への恩賞の可能性
 「二月騒動」の2ヶ月後、山鹿(麻生)資氏は、父資時の遺領である「麻生庄・野面庄・上津役郷」地頭職を安堵される(麻生文書3号)。これは建長元年に父資時が祖父時家から譲られたものと同じである(同1号)。だが、この下文の内容には不可解なことがある。「尊卑分脈」によれば資氏には弟資忠がおり、分割相続のこの時代、資氏が父の全遺領を相続することは不自然に思える。資時は8年前の文永元年にも上記の地頭職を安堵されているが、文永年間中に山鹿氏が恩賞を得ることができるような状況は見当たらず、この時期の急速な領地の拡大は考えにくい。あくまでも想像だが、資忠は父の戦死による新恩地を相続したのかもしれない。

「惣領と庶家」、山鹿氏の分割相続の試算

【分割相続】(『山川 詳説日本史図録』p.101から)
 嫡子だけでなく、庶子や女性にも財産が分割され、相続される財産法。庶子は財産を分与されても、惣領の下で血縁的集団の構成員として行動した。しかし、分割相続は所領の細分化・武士の窮乏化を招き、しだいに一期分(一代限りの財産相続で、死後は実家の惣領が相続)が女性に、ついで庶子へと導入され、さらに単独相続へと移行した。

【単独相続】
 財産の相続方法の一つ。室町時代の武家では、惣領となった嫡子が家督とともに全て相続した。
 鎌倉時代は分割相続だったため所領が細分化されてしまったので、一期分を経て嫡子単独相続へと変わっていった。
 江戸時代には長男による単独相続が主となった。庶民では江戸時代までは分割相続の場合もあったが、明治時代に明治民法で長男の単独相続が規定された(現在は分割相続)。

【山鹿氏と総領家と庶家】
 桃色の枠の人々は、元寇の時期に武士として戦うことができたと思われる世代である。

 緑色の枠の人々は鎌倉幕府の滅亡に立ち会った世代である(人の一生が同じという、恐ろしい仮定のうえだが)。
 赤数字が所領の広さと保持する兵力である(家政が1500町を賜ったとすれば、時家が1000町となるので、=10町、兵力は騎馬武者1騎、郎従3名とする)。

 青の小文字は、当主(25歳)となり、長子が生まれる歳を西暦で表した。

(例)

「政家」は桃色の枠で、赤数字が「15」、青小文字が「1270」なので、元寇に参戦した世代で、所領は150町、本人を含めて15騎、従兵45人を率いる武士団の長である。


 桃色の枠の中では総領家と思われる「政家」、後に麻生氏となる「資氏」、最も左の「信政」の所領が際立って大きいことが分かる。あるいは「北・中・南」の三家につながるのかも知れない。
 この図では、家政の次男の家系の「資綱」が圧倒的に大きいが、四代続けて一人息子というのも不自然である。「資」を共有する麻生家とつながる可能性もあり、今後の検討を要する。

「麻生文書」1・2・3号の時代まとめ

 「麻生文書」1・2・3号は、偶然にも麻生資時の一代記になっている。
 「麻生文書」1号の建長元年(1249)、父資家の譲状によって「麻生庄・野面庄・上津役郷」を安堵されたが、「宮騒動」「宝治合戦」など、幕府首脳の権力争いは激しさを増し、資時の地頭職も時頼以降は得宗以外の北条氏有力一門に譲渡された。
 資時が地頭代職に任命された建長元年、時頼の死により地頭職を再安堵された文永元年、自身の突然の死が訪れた文永九年は、いずれも気温寒冷化による大飢饉や疫病のさなかであり、彼が治めた麻生庄・野面庄・上津役郷においても、人や物の損害は大きかったと思われる。特に舟運を主な生業とする山鹿(麻生)氏においては、三浦氏の没落により朝鮮との交易が増益だったとしても、連年の暴風被害は深刻な影響をもたらしたであろう。
 たとえ損害が僅少であったとしても、「建長大火」「建長飢饉」「正嘉飢饉」など京都在住の「領家」「本所」の損耗は著しく、臨時の課税が容赦なく課せられたに違いない。
 かかる状況の中で、フビライから国書がもたらされ、日本は戦時態勢に移行する。
異国警固番役が制度的に定められたのは文永の役の翌年(1275)であるが、実質的には文永8年(1271)の九州に所領をもつ御家人への下向命令から始まっており、特に鎮西在住の御家人は、身分に関係なく年に1ヶ月間博多湾岸の防備に当たることになっていた
 山鹿(麻生)氏が「御家人」であったか否かは不明だが、北条氏有力一門被官として積極的に活動せざるを得なかったであろうことは想像に難くない。そんな多忙困難な時期に資時は二月騒動において戦死し、譲状なしに子の資氏が父の全所領「麻生庄・野面庄・上津役郷」を安堵される。尊卑分脈によれば、資時には「資氏」「資忠」の2名がいるが、「資忠」はこの時の恩賞地を相続したと思われる。
 資時死去の翌年(1273)、少弐資能は豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の兵力を把握するため、領内の武士の名字や分限(所領の広さや家来の数)、領主の名を列記するなどした証文(報告書)を持参して大宰府に到るよう命令を発した。無論、山鹿氏も例外ではあり得ない。元寇が近づいている。

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