はじめに
福岡県には「黒瀬」姓の人が1200人ほど居住しておられる。都道府県別黒瀬姓数では、全国第4位(1位岡山県、2位広島県、3位山口県)で、福岡県と「黒瀬」さんには、歴史上、何らかのつながりがあることを示している。たしかに私の中学時代の級友に「黒瀬君」がいたし(福岡市城南区梅林中学校)、お笑い芸人パンクブーブーの「黒瀬」は福岡県糟屋郡出身だ。さらに見ると、「黒瀬」姓は粕屋郡に極端に多く(400人)、県内では福岡市(50人)・北九州市(50人)などの大都市圏を大きく上回る(名字由来net調査)。普通に考えて糟屋郡は「黒瀬」氏の苗字の地であるはずなのだが、なぜか「黒瀬」という地名は存在しない。近隣地では玄界島沖の海中に「黒瀬」と呼ばれる小さな岩礁が存在するが、島の伝承では元寇から江戸初期まで玄界島は無人島で、岩礁の名が名字になる機会はなかったと思われる。姓の分布や地名の有無から見る限り、どうやら「黒瀬」さんは、他の県から福岡に来て粕屋郡に土着したようだ。
では、粕屋郡の「黒瀬」さんはどこから来たのか、なぜ来たのか。本稿はその問いにこたえようとするものである。
江戸時代に編纂された「筑前国町村書上帳」には、糟屋郡大隈村医師黒瀬氏が所蔵した文書が十二通掲載されている。文箱に収納されていた順に記録されたらしく、後世の私たちの目からは順不同としか見えない並びになっている。とりあえず、時代順に並び替え、黒瀬氏がどのような活動をしていたか読み取ってみたい。
なお、丸数字は「書上帳」の登場順(青柳種信が調査した時、黒瀬家の文箱の1番上にあった文書が①、2番目が②)を示している。本文は和風の漢文であったのを、力不足ながら河島が訓読し、前後に簡単な解説や年表を付け、読者に時代の雰囲気を感じてもらえるようにした。
また、しばしば領地の加増分を現在の円に換算するが、歴史家の計算式は、1町=10反、1反の収穫量=1石、米1石の値段=銭1貫文、銭1貫文=10万円(ただし年貢を五公五民として、手取りは半分)とするのが通例だが(【例1】参照)、
【例1】 5町の加増=50(反)×10(万円)÷2
=手取り250万円の増収
私は歴史家の換算に納得できない。
米1石は、当時の人間1人が1年間に食べる米の量に当たるとされているが、現代生活での米代への換算なら、10万円もあればおつりが来るだろうが、当時のお百姓さんは米を売って現金化し、それで衣食住のほとんどを賄っていた。よって日常、米を食べることはかなわず、自分の畠でとれる無税の粟・稗などの雑穀を食べて生きていた。となれば、1石は1年間の生活費に近い。現在、はたして10万円で1年間生活できるだろうか?
現在の日本の法律では、必要最低限の文化的な生活を送るには月7万円が必要とされている(生活保護費)。とすれば、金額の当否はともかく、年間で7万円×12ヶ月=84万円が必要であることになる。これを計算しやすくするために、便宜上、年間80万円とし、これを河島換算【例2】と呼ぶ。
すると同じ加増でも、
【例2】5町の加増=50(反)×80(万円)÷2
=手取り2000万円の増収
となり、【例1】の250万円とはかなり印象が変わってくる。言うまでもないことだが、加増は「家」に対して宛行われるものであり、個人になされるものではない。今で言うなら「会社」の増収分である。ちなみにこの五町は、筑前国守護代の家老を務めてきた父の戦死に対する保障でもある。250万円か2000万円か、読者の皆様にどちらが適正か考えていただければ幸いである。
天文4年(1535)、黒瀬新左衛門尉、佐渡守に推挙される
⑦ 佐渡守の事、京都に挙すべき状、件の如し。
天文四年二月二十日 (花押:名無し)
黒瀬新左衛門尉殿
天文四年(1535)二月二十日、黒瀬新左衛門尉を佐渡守に推挙する事を通達した文書。
佐渡守は正六位上、大名の家老が任命される格。
戦国時代の武家の官職は全国的にほとんど私称だが、大内氏も一部重臣を除いては、官途吹挙状を実際に送ることなく、公式に名乗ることを許可していた。【戦国時代に於ける筑前国宗像氏発給文書の一考察 桑田和明】
【この頃の出来事】
天文三年(1534) 大友氏二階崩れの変。鉄砲伝来。
天文四年(1535) 12月大内義隆が、少弐資元・冬尚父子を肥前に追う。大内安芸衆帰国。
天文五年(1536) 大内義隆、太宰大弐となる。
天文10年(1541)、黒瀬与三兵衛、長門国河棚庄に加増される
⑫ 長門国豊西郡河棚庄内、(渡辺孫右衛門尉先知行)跡伍石足
(坪付別紙)、これ有る事、右は数年の奉公馳走に、その賞として宛て行う所なれば、早く知行を全うし、相違あるべからざるの状、件の如し
天文十年八月十日 興運(花押)
黒瀬与三兵衛殿
⑩ 長門国豊西郡河棚庄内、渡辺孫右衛門尉先知行跡伍石足
(坪付、之れ別紙に在り)、これ在る事、黒瀬与三兵衛尉長実の 給地と為し、之を宛て行われれば、早く当土貢を云え、
下地を云え、速やかに打ち渡さるべきの由、
依りて 仰せ 執達件の如し。
(包紙)
(真松弥三郎) 長村判
天文十年八月十日 (世良又三郎) 運兼判
(青景藤次) 運郷判
井上対馬守殿
【解説】
天文十年(1541)八月十日 杉興運が黒瀬与三兵衛に、数年奉公の賞として、長門国豊西郡河棚庄五石足を宛て行われた文書。⑫は本人へ、⑩は郡代である「井上対馬守」にその執行を促す杉興連奉行人の連署奉書である。
五石は、水田0.5haの収量で70メートル四方の農地にあたる。
五公五民として、歴史家的には年二十五万円程、河島換算なら、年間200万円の昇給である。
「黒瀬与三兵衛」の諱は長実、前記「新左衛門尉」の息子であろう。「長実」という実名は、興連の前任の筑前国守護代杉興長の偏諱と推測される。
「興運」は杉氏で筑前国守護代高鳥居城主である。
【この頃の出来事】
天文九~十年(1540~1541) 吉田郡山合戦で大内氏は尼子氏を破る。
天文十年(1541) 大内義隆が大宰大弐(五年就任)ならびに七カ国守護に就任。
大友義鑑も九州探題・三カ国守護に就任。
年不詳、黒瀬長実、頭巾・衲衣を許される
⑥ 長実が事、去年吉田の陣已来、寒雪を凌ぎ、日夜心を労せしむ段、神妙の思召しを致すの由、仰せ出され候。然れば奉公への忠掌(賞)の為に頭巾併せて衲衣(暖かい法衣)の儀を御赦免なさる通り、それを心得、よくよく(お礼を)申すべきの旨に候。 恐々謹言
(包紙)
十二月十日 (磯部弥三郎) 長恵(花押)
(真松弥三郎) 長村(花押)
(青景藤次) 運郷(花押)
黒瀬与三兵衛尉殿
【解説】
長実が吉田陣での功績として、頭巾と衲衣を着用することを許可した書状で、守護代杉氏家臣の連署がある。当時、頭巾・暖衣を許されることは大変な名誉とされた。(黒田如水の肖像参考)
なお、吉田陣は天文九~十年の吉田郡山合戦を指すと思われるが、黒瀬氏の従軍は確認できない。
【この頃の出来事】
天文二十年(1551) 大内義隆、家臣陶隆房に攻められ自刃する。
弘治元年(1555) 毛利元就、陶晴賢(隆房)を厳島に破る。
弘治三年(1557) 毛利元就、大内氏を滅ぼす。大友義鎮、秋月・筑紫氏を攻める。
永禄元年(1558) 北部九州は騒乱状態になる。
永禄2年(1559)三月、黒瀬与三兵衛尉、佐渡守に任官し、粕屋郡中原村に加増
⑨ 佐渡守の事、望みに任する之状、件の如し
永禄二年三月二十一日 連緒 判
黒瀬与三兵衛尉殿
⑧ 中原村内今泉弥三郎先給の内十石足、伊賀香新蔵人先給十石足之事、御判の旨に任せ、知行あるべく候。重忠の存ぜざるの儀に於いては、承引之あるべからず候 恐々謹言
卯月五日
世良但馬守
黒瀬佐渡守殿 清水越後守 重安(花押)
重安 重忠(花押)
⑤ 筑前国糟屋郡中原村内、今泉弥三郎先給の二十石足の内十石足、
同村伊賀香先の知行分三町地の事、之を宛て行い畢ぬれば、
早く領知すべきの状、件の如し。
永禄二年卯月九日
連緒(判)
黒瀬佐渡守殿
【解説】
永禄二年(1559)三月に、黒瀬長実は佐渡守に任官し、さらに四月、筑前国糟屋郡中原村内に、二十石足分、新たな領地を給された。
二十石は現在の価値の年収手取りで百万円(河島換算800万円)ほどの加増。
給主の重安・重忠・連緒は、元筑前国守護代杉氏の一族で、当時、毛利氏に属していた。
佐渡守は祖父・父が任官されていた官職であるが、自動的に就任できるわけでない。任官希望を上司である杉連緒に申し述べ、連緒は当時の主君である毛利隆元(現在の当主、元就の長男)に文書を送り、隆元は幕府の申次を通じて将軍に伝え、最後に将軍が朝廷に任官を奏請する。それぞれに献金をしなければならず、大変な手間と物入だったはずである。ただし、杉連緒が実際に取り次いだかは不明。
【この頃の出来事】
永禄二年(1559)一月、筑紫広門が博多を攻撃する。
永禄二年(1559) 九月、立花鑑鑑、大友勢を率いて宗像許斐城を攻め、宗像氏貞を大島に追う。
永禄二年(1559)九月、黒瀬長実、粕屋郡久原口で戦死
① 去十五日、豊州衆、相働之砌り、久原口に於いて懸け合い、防戦を遂げ、父長実討死の段、誠に比類これなく、必ずその賞を行うべきの状、件の如し
(永禄二年)
九月十九日 連緒
黒瀬弥次郎殿
【解説】
永禄二年(1559)九月十九日、杉連緒(興連の子)が黒瀬弥次郎(長実の子)に 「九月十五日糟屋郡久原口に於いて大友勢と合戦、父長実が討死」したのに対して恩賞を約束した文書である。
この合戦に関しては他に記録がないので詳細は不明だが、立花城の立花鑑載(大友方)の許斐城(宗像氏王丸)攻めに先だって黒瀬長実は久原口で討死した。
当時、戦功の第一は討死だったので、四日後には恩賞の約束が下されている。
この戦いは尼子晴久の要請によって始まった大友宗麟の豊筑侵攻の緒戦で、数万の兵が門司城で小早川隆景を釘付けにして援軍の派遣を許さず、孤立した毛利方の麻生氏(遠賀郡)、宗像氏(宗像郡)の城々を大友勢は次々に陥落させた。宗像氏貞は大島に逃れ、杉連緒は長門に遁げ、麻生隆実はほとんど全ての城を失った。
⑪ 父長実に対して扶助せしむるの四町五反の地、相違候う状、その替えとして筑前国糟屋郡江辻村内、三苫和泉守先給の四町五反の地が事、之を宛がう。てえれば、早く領知すべきの状、件の如し
永禄二年九月十九日 連緒 判
黒瀬弥次郎殿
【解説】 永禄二年九月十九日、黒瀬弥次郎の父長実に給したはずの四町五反の地が、なぜか給されておらず、その替地として江辻村内の旧三苫和泉守の四町五反の地を与えるという通達文。戦死直後にそのミスに気づくとは、偶然か必然か、故意か事故か、興味は尽きない。
年不詳、黒瀬次郞三郎、粕屋郡席内郷に加増
④ 院中席内郷之内の徳久名、同庄方御畠之内三丁之事を
遣わす也。乃ち執達件の如し。
卯月二十四日
親純(花押)
黒瀬次郎三郎殿
【解説】
十二通の文書の中で唯一、発行年、発給者名、受取者名が裏取りできなかった文書。
しかしながら、親純の「親」は、杉氏には見当たらず、立花氏や志賀氏などの大友系の諸家にしばしば登場する。よってこの文書の発給時期は、黒瀬氏が大友配下に入った時期以降、「道雪・統虎」以前と推測し、この段に置いた。
内容は、席内郷(現:古賀市徳久)に三丁(町)の農地を遣わすというものである。水田なら三十石程の収量で、五公五民として現在なら手取りで年150万円(河島換算1200万円)の加増だが、「御畠之内」なので畑地である可能性が高い。畑地の生産力は水田の1/5と後世の検地で換算されているので、結局年30万円(河島換算で年240万円)程度の増収にしかならない。
年不詳、黒瀬連祐、戸次道雪から五町分を預け置かれる
② 今度、一の忠義、顕然たれば、五町分、坪付は別紙にある事、
預け置くべく候。 恐々謹言
十二月五日
道雪(花押)
黒瀬連祐
【解説】
立花(戸次)道雪が黒瀬連祐の功績を「一の忠義」として五町分の土地(河島換算で年2000万円)を預けるという文書(形式は手紙の型である)。
立花道雪の糟屋郡立花城主としての履歴は、
・元亀二年(1571)五月、大友宗麟が戸次道雪を立花山西城督に命じる。
・天正三年(1575)五月二十八日、道雪は一人娘の誾千代に立花城督を譲る。
・天正九年(1581)八月十八日、高橋紹運の長男・統虎が道雪の養子となる。
・天正十三年(1585)九月十九日、道雪筑後北野において陣没。
黒瀬氏はこの時期には完全に大友氏の配下となり、道雪に従って筑前・筑後・肥前・豊前に転戦したと考えられる。年次がないので「一の忠義」がいつ・どこで顕然としたのかは不明だが、この文書は戸次鑑連が立花城に赴任した元亀二年(1571)から、死去した天正十三年(1585)の間に発給されたと思われる。
天正十四年(1586)八月、黒瀬連祐、立花統虎(宗茂)から感状を受ける
③ 前(二十五)に高鳥居取り崩し候刻、別して手を砕かれ、
分捕高名の次第、感悦に候。必ず時分を以て、
一稜(ひとかど)、之を賀すべく候。 恐々謹言
八月二十七日
(立花)統虎 (花押)
黒瀬連祐
【解説】
黒瀬連祐が、高鳥居城攻略の際、特に活躍し、敵の首を取り、名を挙げたので、いつか必ずお祝いいたしますという立花統虎(宗茂)からの感状(形式は私信)。
天正十四年(1586)七月二十七日、九州統一を目指す島津軍は、立花統虎(宗茂)の実父高橋紹運が守る岩屋城を落城させ紹運以下七百人余りが玉砕した。博多へ進出した島津軍の次の目標は、立花統虎の守る立花山城である。島津軍は立花山を包囲したものの全面攻撃はしていないらしい。『上井覚兼日記』によると、島津軍は秋月種実を仲介し宗茂へ対し降伏勧告しているが、宗茂はこれを拒絶。島津軍は秀吉の九州討伐軍が来る前に薩摩へ撤退した。統虎はこれを追撃し、高鳥居城の星野兄弟を屠った。この書状は高鳥居城攻めでの黒瀬連祐の活躍に対するものであろう。伝承では、黒瀬氏が城主を務めた丸山城(糟屋郡大隈町)は、立花攻城戦の間に島津配下の秋月氏によって落城したとされる。
天正十五年(1587)、秀吉により立花統虎は筑後四郡の領主として柳川城へ移る。筑前は小早川隆景が太守となり名島城へ入った。
黒瀬氏はこの時立花家を離れて帰農し、以後豪農・大庄屋・医師として江戸時代を通じて糟屋郡の人々をリードする。
まとめ
黒瀬家の祖先は、安芸国加茂郡黒瀬庄を本拠とする国人領主である。室町戦国期に大内被官となり、その一族が豊前・筑前守護代「杉氏」の与力として筑前国に赴任し、大内氏の北部九州進出に活躍した。やがて重臣として「高鳥居衆」の代表格となり、糟屋郡内丸山城を預けられるほどになった。
しかし、大内義隆の滅亡により騒乱の地となった北部九州で、大内から毛利、さらに大友へと主を替えざるを得ず、直属の主「杉氏」の滅亡により、立花氏道雪・統虎(宗茂)の家臣として生き残ることになった。
豊臣秀吉の九州国割により、立花宗茂が柳川に移ると糟屋郡内に帰農し、家格・人脈・識字力を生かして、江戸期を通じて豪農・大庄屋・医師を務め、郡内の行政・教育をリードした。
明治以降も郡会議員に選出されるなど糟屋郡の振興に尽力し、「黒瀬」姓は糟屋郡を中心に福岡市・北九州市など福岡県内に広がっていった。
この稿を書き終えた後、『黒瀬町誌』の存在を知り、研究をわずかながらでも深めることができた。
しかしながら、せっかく書きあげた記事を捨ててしまうのも惜しく、読者のお怒りを承知のうえで、その成果は『黒瀬氏レポート2』で発表させていただくこととした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ぜひ『レポート2』にも目を通してやってください。
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