1.はじめに
今回の鎌倉旅行のテーマは「できるだけ鎌倉時代の道をたどって、道幅や距離感を感じたい。目の前の街区が誰の御屋敷なのかわかるようになりたい」。けれど鎌倉に行ったのは40数年前のことで、昔のことはもちろん、現在の鎌倉の知識も土地勘もありません。
鎌倉行きが決まってから出発までの3週間は、連日、論文・ブログ・書籍を手当たり次第に読んだり地図を作ったりしていましたが、なかでもいちばん参考になったのが
「鎌倉の路」https://www.kcn-net.org/kama-michi/ というブログです
現在と過去の結節点が、写真と平易な文章で綴られ、名所旧跡周辺の地形や歴史的エピソードが自然と頭の中に入ってきました。私のこのパンフも参考どころかコピペといっていいぐらいです(私の書いた文も混在しています。筆者の方、スミマセン…)。
すばらしいブログですので、ぜひ検索してみてください。
今回のブログでは、「鎌倉の路」の記事を中心に、鎌倉時代の鎌倉を紹介していきたいと思います。
いちおう、敬体(です・ます)の文章が「鎌倉の路」の筆者、常体(た・である)が私の文章です。
2.鎌倉誕生
鎌倉中心の全景源頼朝が鎌倉入りしたのは、今から800年以上前の治承4年(1180)、10月6日です。
翌日には、5代前の先祖である源頼義が建立し、その子義家が修理をした「鶴岡八幡宮」(現在材木座一丁目にある元八幡宮)を参拝し、次に父親の義朝が住んでいた亀ヶ谷(現在のの扇ケ谷)の館跡(寿福寺の場所)を尋ねました。【写真は鎌倉の遠景】
その六日後の10月12日には、八幡宮を材木座から小林郷の北山(現在の鶴岡八幡宮のある場所)に遷し、新たに建立した鶴岡八幡宮から、海に向かってまっすぐな参道を作りました。
この道路整備の始まりは、「吾妻鏡」の寿永元年(1182)3月15日の条に「鶴岡の社頭より由比ヶ浜の海岸に至る迄、道の曲がりを直して参道を造成した」とあります。
たまたま妻政子が懐妊したので、 安産祈願をかねて道路の建設に着手したことになっていますが、「頼朝は先頭にたって道路の建設工事を指示し、舅の北条時政等の御家人も土石を運ぶという熱の入れようだった」と記されていますから、もともと土木や建築が好きだったのかも知れません。
『吾妻鏡』に頼朝が入る以前の鎌倉の様子が伝えられています。「鎌倉はもとより辺鄙なところで、 漁師や田舎人の外は住むものもない村です。このような辺鄙な町をば、 頼朝が道を直して町に名前をつけるなどの仕事を行いました。その結果鎌倉の町は大変に賑わい、家々は瓦を並べ門扉は軒を軋りました・・・」。
※【河島のツッコミ1】
要するに『吾妻鏡』は、「何もないただの田舎だった鎌倉が、頼朝様のご威光で立派な都会になりました」と言っているのだが、これはいささか怪しい。
現在、JR鎌倉駅西口から徒歩5分程の鎌倉市役所や御成小学校(戦前は皇室の御用邸だった)がある微高地からは鎌倉郡衙跡が発掘されており、天平の昔からこのあたりは都市といってもいい集落があったことが分かっている。
さらに甘縄神明社や荏柄天神社、杉本寺など創建が古い寺社の存在は、鎌倉が古代から交通の要衝であり、少なからぬ人々の生活の場であったことを示唆している。
『吾妻鏡』の作者は、源頼朝ひいては鎌倉幕府の成立を顕彰するために、この一文を綴ったものと思われる。
その外に、鎌倉の賑わいの模様を伝えるものとしては中世の紀行文の「とはずがたり」(鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学)に次のように描いております。
「夜が明けて鎌倉に入った。極楽寺を訪れてみると僧呂の振舞いが都と同じなのを懐かしく思った。 仮粧坂(けわいざか)という山を越えて、鎌倉の町の方を見ると、東山にて京を見るのとは大分違い、 家々が階段状に重なって、袋の中にものを入れたようにぎっしりとつまって住んでいる。・・・」と、 当時の鎌倉の住宅事情をいきいきと描写しています。
『一遍聖繪』備前国福岡の市、化粧坂や由比ヶ浜の商業地区もこんな光景だったのだろう
また、鎌倉時代に於ける海岸の様子については、同じく中世の紀行文の「海道記」(貞応2年(1223)成立と考えられる紀行文。作者未詳ながら鴨長明・信濃前司行長とする説もある)に、次の様に描いています。「申(さる)の斜めに、由比ヶ浜に落ち着いた。暫く休息して、辺りを見ると、数百艘の船が綱で繋がれて、大津の浦の様子に似ている、千万軒の家が軒を並べている様子も大津の渡しとよく似ている。 御霊神社(ごりょうじんじゃ:俗に権五郎神社と呼ばれ仮面行列の祭りが有名)の鳥居の前で日が暮れた後に、若宮大路から泊まる宿に着いた。・・・」と、各地から物資を運搬してきた船と港町の賑わいを描写しています。北条泰時の時代になりますと、鎌倉は外部との交通が発展し、陸路では丘陵を開いた切通の「鎌倉七口」の整備が進み、海路では飯島海岸(材木座海岸)の和賀江に港湾を建設し、海外との交易も行われるようになりました。
※ 【河島のツッコミ2】
考古学的発掘による最近の研究は、鎌倉の発展は、まず2つの東西に延びる道路、北の「六浦道」と南の「大町大路(古東海道)」沿いから始まったとする。次に、材木座や和賀江島の海運の隆盛に伴い南北の流通も盛んになって、この2つの道をつなぐかたちで、東の「小町大路」と西の「今大路」が北にのびて横大路に接続し、今の都市域が形成された。
同時に行われた地質調査の結果でも、若宮大路二の鳥居周辺は粘土層で、かつてそこが低湿地であったことを示しており、頼朝入部時は人が住める状態ではなく、「段葛(だんかづら)」もぬかるみ対策として作られた可能性が考えられるようになってきている。
鎌倉時代は若宮大路全体が特別の道であり、これに面している屋敷でも出入ロを作ることを禁止されていたらしい。つまり、源頼朝が創建した若宮大路は純粋に鶴岡八幡宮の参道であって、この付近が市街地化するのは、嘉禄元年(1225)、宇都宮辻子に幕府が移転して以降のことで、「頼朝は武士の都としての鎌倉を、平安京をイメージして都市計画した」とするのは後世の附会ということになる。
なお、幕府は、大蔵幕府【1180(治承4)年~1225(嘉禄元)年】▶▶宇都(津)宮辻子幕府【1225(嘉禄元)年~1236(嘉禎2)年】▶▶若宮大路幕府【1236(嘉禎2)年~1333(元弘3)年】と3回引越している(宇都宮辻子幕府と若宮幕府は移転ではなく増改築とする説もある)。
3.道を探る(1) ー 江戸時代の観光絵図と伊能図 ー
頼朝が建てた大蔵幕府は、和田合戦で炎上したまま再建されなかったが、摂家将軍頼経の元服にともない、嘉禄元年(1225)、幕府が宇都宮逗子に移転建設された。それ以降、若宮大路を軸として都市鎌倉の発展は続いたが、元弘3年(1333)、新田義貞に攻め込まれ、150年間続いた鎌倉幕府と北条氏は滅亡した。その後は、足利氏の鎌倉府のお膝元(ただし中心は浄妙寺付近)としてそれなりの発展は続いたが、享徳3年(1454)、鎌倉公方の足利成氏が鎌倉を離れ、下総古河に移座するにおよび少しずつ衰退しつづけ、江戸時代には静かな農漁村となった。
ところが徳川幕府によって交通網が整備されるにしたがい、鎌倉は寺社が多く江戸に近いことから、大山や江の島、金沢八景とともに物見遊山の地として知られるようになり、ガイドブック的な本や絵図が刊行されるようになった。
その先駆けとなったのが『新編鎌倉志』、作者は水戸黄門こと徳川光圀である。延宝二年(1674)の自身の鎌倉探訪の体験をもとに家臣たちに本格的な鎌倉の地誌・案内書を編纂させて貞享二年(1685)に刊行し、その後の鎌倉案内書に大きな影響を与えた。江戸期に始まる鎌倉ブーム前の良質な情報を掲載しており、鎌倉研究の貴重な史料となっている。
『新編鎌倉志』をかわきりに案内書は続々と刊行され、絵図だけでも50種類以上あると言われる。
ここに示す絵図は「元禄八乙亥年(1695)八月吉日/斉藤氏富田屋庄兵衛板行」と書かれています。絵図の上方に鶴岡八幡宮があり、そこから由比ヶ浜海岸に向かって若宮大路が真直ぐに通り、一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居が描かれています。
北から順に、三の鳥居附近で若宮大路に直交する横大路、南下して二の鳥居附近で直交して小町大路に達する路、西の長谷大仏及び長谷観音堂から由比ヶ浜通りを東に進み、下馬附近で若宮大路と交差し、大町を通り名越に通じる大町大路があります。
また、若宮大路の東側を南北に走る小町大路が、朝比奈切通から六浦路と宝戒寺前で接続し、 さらに南下して和賀江島の築港へと通じています。この路に沿って南北に流れる滑川が、橋のところで道と交差しながら由比ヶ浜で海に注いでいます。
このように江戸時代に描かれた観光用の絵図でも、当時の路の概要は想像できますが、 観念図ですから距離感や方角は正確さに欠けるところがあります。
江戸期の地図の中で、距離・方角・面積などがもっとも正確なのは言うまでもなく「伊能図」である。しかし、鎌倉では海岸と若宮大路しか測量していない(沿海図ですから当然ですが…残念 !)。
下に左の地図を掲載している「伊能忠敬e資料館」のアドレスと解説文の(青字)を掲載した。楽しいブログなので、興味がある方はぜひ検索していただきたい
「伊能忠敬e資料館」 https://www.inopedia.tokyo/salon03/yui/index.html
【測量日記】(三浦半島を周回し四月二〇日小坪村に泊まる。翌日は)
『同二十一日 朝晴。腰越村役人見廻に来る。六ツ半前小坪村出立。乱橋、材木座村、此村より鎌倉郡なり。光明寺、浄土宗の大寺あり。由井浜より鶴ケ岡八幡宮迄脚間を以測量し、それより無測量にて参詣。建長寺、円覚寺、大仏、長谷村へ下り坂下村、海辺、稲村ケ崎を回り、腰越村へ止宿と泊触出置候所、江ノ島の渡汐千にて歩行になり、且江ノ島周囲も測量相成候旨を申候間、江ノ島止宿繰替を談候所、腰越村には止家無之、寺を用意致候趣に候間、大に悦、江ノ島役人も江ノ島止宿宜候旨に付、江ノ島泊に致し、直に左の海辺を測量し、岩屋の前、竜池という所より帰り止宿、夷屋吉右衛門。』
材木座村から由比浜へ向かい、ここから鶴岡八幡まで歩測した。海岸の測線は間縄を張ったが八幡宮への測線は歩測だった。
第一次測量は全部歩測、第二次以降では作業要領を変えて、全部縄を張ったが、ここだけは歩測とことわっている。
江戸の近郊では珍しい忠敬歩測の道である。皆さんも歩測してみてはいかが。
因みに、現在の国土地理院の地図に伊能図上の測線を重ね合わせてみたところ、伊能図を反時計回りに14度回転させるとうまく重ねあわすことができ、鶴岡八幡までの距離はドンピシャリとなった。
鶴岡八幡に参拝のあと、無測量で、建長寺、円覚寺、大仏、から長谷村経由腰越へ出た。伊能測量では著名社寺には門前まで測量していって、境内、宝物などを案内してもらうことが多い。一種の役得かも知れない。最近分かったのだが、大和の法隆寺のような大寺院にも参って、美麗な境内図など謹呈されている。西国の一の宮にはよく参っており、そのためだけの盲腸のような行き止まり測線が各地にみられる。
腰越にはしかるべき宿舎がなかったので、村役人は寺院宿泊を勧めたが、江ノ島への砂州が干上がっていた。
・忠敬「江の島の周辺も測りたい。江ノ島に渡れるようだが、江ノ島泊りはどうかな」
・村役人「それはいい。早速、江ノ島の役人に掛け合いましょう」
江ノ島泊りと決まると、江ノ島の東海岸を岩屋の前の龍池まで測り、夷屋吉衛門方に泊まる。翌日は西海岸を測り、全員揃って弁天の本宮に参詣。岩屋周辺も測った。
4. 道を探る(2) 明治15年の参謀本部陸地測量部地図 【迅速測図】
さて、鎌倉の地図は、江戸時代には盛んに作られていたことは分かったが、観光用の観念図なので、道の距離や方向、縮尺に正確さを期待することはできない。たのみの「伊能図」も若宮大路と海岸線の道路しか測量していないので(沿海図ですから当然だが)、今回は利用できない。
「鎌倉の正確な地図はどこまで遡れるのか」
そんな疑問で頭がいっぱいのとき、鎌倉市教育委員会の公式noteの「鎌倉の古い地図のはなし」という記事にいきあたった。「明治初期に関東地方を対象に作られた「迅速測図(じんそくそくず)」と呼ばれるものがあるんですが、これが見られるサイトがあります。じゃじゃん!」と書いてある。
しかも「鎌倉のいわゆる「地図」の一番古いものは、この迅速測図です」と断言して下さっている。(綠の部分は引用です。鎌倉図書館の方、ありがとうございます!)
さらに「鎌倉の路」の著者が入手された「品川及び横浜近傍第七号洲崎村・雪の下村(二万分の一地図)」の地図がこれにあたるようで、その研究成果と地図をリンクさせることができ、「歴史的農業環境閲覧システム」のサイトに入れば「迅速測図」と「国土地理院地図」を簡単に比較することまでできる。
「歴史的農業環境閲覧システム」の比較地図を選択して、「横浜」か「茅ヶ崎」のどちらかをクリック、そこからドラッグして鎌倉にたどり着いたら、どちらかの地図のポインタをドラッグして道の上を滑らせてみてほしい。もうひとつの地図のポインタが道をはずれなければ、2つの道は大きく変わっていないということである。
「歴史的農業環境閲覧システム」(イメージ)(https://habs.rad.naro.go.jp)
「比較地図」に入り、ポインタを動かしてみると、地図中央を海岸線に向かって一直線にのびる「若宮大路」、鶴岡八幡宮の社頭を東西に延びる「横大路」、若宮大路の東を平行する「小町大路」、同じく西を走る「今大路」、市域の南側を六地蔵から名越へと抜ける「大町大路」はほとんどポインタがはずれることがなかった。
しかも、これらの「大路」は道幅が狭く(若宮大路を除く)、創建が古い寺社の社頭門前を縫うように走っている(創建時には、すでにこの道がそこにあったことを示している)。どうやら鎌倉の「大路」は、中世の「大路」をそのまま踏襲して明治に至り、現在ではモータリゼーションによる舗装や拡幅など道路状況の改変はあるものの、コースそのものは中世を受け継いでいると言っていいようである。
ちなみに平日休日を問わず観光客でごった返している「小町通り」は、「迅速測図」ではまだ農業用地で、横須賀線開通による鎌倉駅開業以降に開発されたことが分かる。
5.まとめ というよりご挨拶
以上の記述をまとめると
① 鎌倉では江戸期に多くの案内書や絵図が作成されたが、地図として正確なものはない。最古の地図は、明治15年、陸軍参謀本部によって作成された「迅速測図」である。よって、中世の道を完璧に復原するのは不可能である。
② しかしながら、「若宮大路」「小町大路」「今大路」「横大路」「大町大路」については、創建が中世以前の寺社の門前社頭を縫うように走っており、概ね中世の道を踏襲していると考えられる。
③ 特に「若宮大路」は800余年間、幾分かの改修(松や桜を植える、段葛が短くなるなど)を除けば良好に保存されており、中世の景観復元の起点になり得る。しかし、「頼朝が武士の都を作るための基軸として作った」とする通説は、最近の考古学的発掘の成果に反しており再考の余地がある。
(以下も私の文章ですが、まとめというよりご挨拶ですので、敬体で書かせていただきます)
どうやら、明治15年の「迅速測図」でも、「大路」レベルなら、鎌倉の路をたどることができそうで正直ほっとしました。
けれど、実はこの地図の……で描かれた直線(道?)が気になっています。凡例が見当たらないのではっきりしないのですが、これって辻子(ずし)の名残(小道あるいは土地の境界線など)を含んでいるのではないでしょうか?
鎌倉の法務局に行って地籍図を閲覧すれば、なにか分かるかも知れませんが、今回は、40数年ぶりの貴重な2泊3日の旅でしたので断念しました(北九州から鎌倉へは結構お金と時間がかかるのです)。鎌倉在住の方や近隣の方々、よろしければご研究いただき発表していただけませんでしょうか…。
ところで、今回作成したパンフレットは、A4用紙100ページ程の分厚いものになってしまいました。旅行中はそれをA4ファイル2冊に分け、リュックサックに入れて運びました。つくづく思ったのは、パンフは大きければいいというものではないということです。
このブログではその反省に鑑み、できるだけ読みやすく、小分けして、カットして、UPさせていただきたいと思います(ちなみに今回は7636字でした)。
次回は、「鎌倉御家人の屋敷地を探る」のお話をしたいと思います。
ここまで、おつきあいくださいまして、ありがとうございました
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