今回からは「鎌倉の路 https://www.kcn-net.org/kama-michi/」を参考にさせていただいて(ほとんどコピペ)、まずは「大路」について、地元鎌倉を愛する人ならではの心温かい文章を味わっていただきたいと思います。
著者の「鎌倉の路さん(と呼ばせていただきます)」のブログは、文章も写真もとても美しく、鎌倉旅行の前にプリントアウトして自分用のパンフを作りました(A4で160ページになりました)。私のこのブログも「100%そのままで」と思いましたが、私もせっかく2泊3日で鎌倉旅行をしましたので、ところどころ自分が撮った写真やへたくそな文章を入れさせてもらいました(スミマセン)。
「鎌倉の路」さんの文体を真似して、こっそり記事を挿入させていただいているのですが、本文と矛盾したり違う内容だったりするときは、「筆者(河島)」として登場させていただきました。
※ 「鎌倉の路」さん、ご不快でしたらコメント欄でお報せください。すぐに対処します
1.若宮大路 ー 聖なる道 ー
二の鳥居鎌倉駅東口の改札からバスやタクシーで混雑する駅前広場を横切って進むと、南北に走る大きな道路に達します。
鎌倉の道路は幅員が狭く常時渋滞を起こすといわれていますが、若宮大路は歩道を含め全幅が約30m程ある近代的な立派な街路です。
(写真は二の鳥居)
北は鶴岡八幡宮から始まり、南に向かって一直線に約2km程延びて由比ヶ浜海岸にまで達しています。 このように、若宮大路は街中を南北に貫いて鎌倉の市街のバックボーンを形成しています。
特に、鎌倉が近代化の波の影響を受ける以前の鉄道も敷設されていない古い地図、例えば明治15年測量の参謀本部の鎌倉の地図を見ると、江戸時代の街の様子を残しており、 さらに遡って八百年前の中世における町の様子を窺い知ることが出来るものと期待できます。
若宮大路時代はさかのぼること八百数十年前の治承4年(1180)8月17日、平清盛により伊豆蛭小島に流された源頼朝は、源氏の再興を目指して挙兵しましたが、 緒戦の石橋山の合戦で大敗して房総に逃れました。ここで千葉介常胤に鎌倉行きを具申され、10月6日には源氏ゆかりの鎌倉に大軍を引連れて乗り込みました。
鎌倉に入った頼朝は、翌7日には真先に由比若宮(現在は材木座一丁目の元八幡)を訪れ、 次に父親の義朝の館跡をたずねました。さらに12日には鶴岡八幡宮を現在の地に移し源氏の氏神としました。
しかし、このころ平維盛が率い遠江を越え駿河に入ろうとしていました。頼朝は全軍を率いて迎撃に向かいます。10月20日、追討軍を富士川で破り、重臣たちの意見で関東に取って返し、常陸国の佐竹氏と戦い、11月17日に鎌倉に戻りました。
この時から鎌倉の都市建設が具体的に進められ、先ず12月12日に大倉の地に館(後の大蔵幕府)を新設し、重臣たちに谷(やつ)を与え、道路の整備を行いました。
【明治元年(1867)の若宮大路】
頼朝が陣頭指揮をして建設した道路工事が、若宮大路の始まりです。現在まで八百年以上もほとんど破壊されることもなく、多くの人々により受け継がれ、立派な街路として鎌倉の町の中心として活躍しています。
一の鳥居
若宮大路には三基の大鳥居があります。海に最も近いのが「一の鳥居」で、国指定重要文化財(建造物)に指定されています。
「一の鳥居」は、石でできています。関東大震災(1923年)のときまで、若宮大路の3つの鳥居は全部石造りだったのですが、3つとも震災で倒壊し、「一の鳥居」だけが御影石で復元されました(「二の鳥居」「三の鳥居」はコンクリート製)。
若宮大路の構造については、大三輪龍彦氏・河野真知郎氏の発掘調査報告書によりますと、両側溝と路肩を含めた総幅は36.6m、道路幅員は十丈(30m)あったいわれています。
先に、現在の若宮大路の幅を約30mあると述べましたが、八百年前は更に大規模の道路を頼朝は造成していたことになります。
戦前の時代の若宮大路を思い出してみますと、鎌倉駅前の路上には江ノ電の終点があり、車掌が電車の集電装置ポールの方向を変えていたのをハッキリと覚えています。
一の鳥居の近くには大きな宝篋印塔があり、そばに「六郎茶屋」と刻んだ石碑があります。「六郎」とは「坂東武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠の嫡男「六郎重保」のことです。
元久2年(1205)6月22日早朝、重保は、由比ヶ浜に謀反人が集結しているとの報を耳にすると、従者3人とともに浜へと向かいました。しかし、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまったのだといいます。同日、父重忠も北条義時らの軍に攻められ、武蔵国二俣川で討死しました(吾妻鏡)。宝篋印塔は畠山重保の墓と伝わっています。
下馬四つ角から南側は道が狭く、琵琶橋は擬宝珠の付いた高欄のある木橋で、その先は大きな松ノ木の間に道路があり、砂埃をたてながら歩きますと、一の鳥居の脇の畠山六郎重保塔の傍らに、「六郎茶屋」と称した茶店を老婆が開いていました。さらに進むと、海岸通りまでは道らしいものでしたが、その先の海岸に出る路は狭く砂地の路でしたのを、 今でもハッキリと覚えております。(写真は畠山六郎の墓)
【筆者(河島)の若宮大路感想 ー 関東大震災の被害 ー】
若宮大路は、寿永元年(1182)に頼朝が妻・北条政子の安産祈願のために造られたものである(京都の朱雀大路を参考にして、鎌倉の都市計画の第一歩として作られたと言われていたが、考古学上の見地から現在ではほぼ否定されている)。元来の若宮大路の幅は、数次の発掘調査の結果、鶴岡八幡宮の社頭から二の鳥居までの約500メートル区間で33 m(11丈)であることがわかっている。
若宮大路最大の特徴である段葛は、当初は鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居までの1300 mに渡ってつくられたが、その後の地震や津波での破壊で明治の初めには二の鳥居から南がなくなり、さらに若宮大路を横断するJR横須賀線の開通で一部撤去されたことで、現在は480 mを残すのみとなっている。(かつては頼朝の時から、二ノ鳥居から鶴岡八幡宮側にむけて道幅を少しずつ狭くし、遠近法による錯覚を利用して、実際の距離よりも長く見えるようにしていると言われていたが、どうやら関東大震災後の修理の際にこのようになったようである。
大正12年(1923)に発生した関東大震災により鎌倉は、地震・津波・火災により大きな被害を受けたが、鶴岡八幡宮・若宮大路も例外ではなかった。若宮大路周辺では、松並木数十本が焼失し、妙隆二と法界寺付近の建物が倒壊した。また、鎌倉警察署や町役場も倒壊し、富田屋・天松・山口等の大きな旅館が焼失した。
「国幣中社鶴岡八幡宮」の被害
楼門(文政11年〔1828〕建立)、下拝殿(同年建立)、一ノ鳥居(寛文8年〔1668〕建立)、二ノ鳥居、三ノ鳥居、太鼓橋、白旗神社の拝殿等が全壊し、石灯籠6対が倒れました。このうち総高約10mの一ノ鳥居(現重要文化財)は、修理不能に近い被害を受けました。【写真は倒壊した楼門】
【全壊した鶴岡八幡宮内白旗神社の拝殿】
本殿・拝殿・若宮(3棟共現重要文化財)・白旗神社本殿(現市指定有形文化財)等は小破し、源平池の護岸や大臣山は崩壊しました。
「鎌倉震災誌」によれば、鎌倉町(全戸数:4183戸)では、約35 %にのぼる1455戸が全壊、1549戸が半壊し、死者412人に、重傷者341人を数えました。
2.小町大路 ー 海港から幕府への基幹道路 ー
小町大路の名称が最初に『吾妻鏡』に登場するのは、建久2年(1191)3月4日の条で、「南風が激しく、 丑の刻(現在の午前2時頃)に小町大路の辺りにて出火した。北条泰時、比企能員などの多くの屋敷が消失。さらに飛火して鶴岡八幡宮の若宮の神殿、回廊、経所等ことごとく灰となる。鎌倉幕府も同様に災害を受けた」とあります。
小町大路はどこにあるの!
「鎌倉市史」には「小町大路は材木座から乱橋を経て大町大路と交差し、小町を経て鶴岡八幡宮の東の鳥居前へ出るもので、その鳥居前が筋違橋(すじかいばし)で六浦路に接続するものである。小町大路の名は恐らく筋違橋から由比ヶ浜路へ出るあたりまでを言ったのではないかと推測される」と述べられています。
ここにいうところの材木座は、鎌倉市の南東にあり相模湾に面した町です。頼朝が武家政治の幕府を鎌倉に設けて以来、新都市建設のための物資の集積場として繁栄したと思われています。
建設資材などの大型物資は、海路を船で運搬し材木座の海岸に陸揚げされました。材木座から小町大路を北上し乱橋を渡り、 更に商家や町屋で賑わう大町四角において大町大路と交差し、妙本寺の門前で滑川を渡ると大町から小町へと入ります。
御家人の屋敷が建ち並ぶ小町の中を若宮大路に平行して北上し、途中数箇所で若宮大路と辻子(ずし)と呼ばれる小路で接続、宝戒寺の門前で西からの横大路と交差しています。 さらに鶴岡八幡宮の東門辺り、幕府の政治の中心地でもあり、商業の中心地でもある筋違橋付近で六浦路に接続しています。
このように、材木座海岸にて陸揚げされた多くの物資を、鶴岡八幡宮や幕府に運び、鎌倉の町の繁栄を支えた鎌倉随一の幹線道路、それが小町大路です。
乱橋材木座
材木座海岸が木材の揚陸地であった証拠として、鶴岡八幡宮の造営のための材木が必要となつた際の状況が吾妻鏡に述べられています。
養和元年(1181)5月13日の条に「鶴岡若宮造営のために材木調達の指示があった。幕府の御家人の土肥実平と大庭景能が奉行をした」。
また翌6月27日の条に「鶴岡若宮の材木、柱13本、虹梁(こうりょう)2本が由比ヶ浜に今朝到着した」とあります。7月には浅草の大工を招き、20日に棟上を行い、8月15日に頼朝が出席して遷宮式が行われました。
以上の記述から、この付近は鎌倉の都市建設に用いる建設資材の集積地であったことから材木の「座」が起こり、そのままこの地の名称として「材木座」と称されるようになったと推測されます。
その一例として次のような興味深い記事が見られます。吾妻鏡の建長5年(1253)10月11日の条に「和賀江の津の材木のこと、近年法律に反したことが行われて、建築資材として不適当な材料が多くなったので寸法を調べた」とあり、ここでいう「和賀江の津」が材木座の古名だといわれています。
この「和賀江の津」は遠浅で風波も高いために難破する船が多いことから、貞永元年(1232)7月に往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が幕府に築港を申請して認められ、 執権北条泰時をはじめとして多くの人々が協力して築港を完成しました。 この結果、国内をはじめとして大陸方面からも沢山の船が集まり小町大路は益々栄えました。
小町大路を歩く
ここに明治初期の地図があります、この地図を頼りに小町大路を歩きます。先ず材木座海岸を基点に北に向かって進むと小坪との境の海上に「和賀江島」があります。
この島の近くに鎮西八郎実朝が伊豆の大島から放った矢の鏃が残るとの伝説がある「六角ノ井」があります。
材木座付近
光明寺(こうみょうじ)
第四代執権北条経時が開基となった浄土宗大本山で天照山蓮華院光明寺といいます。
明応4年(1495)、後土御門天皇によって勅願寺となり、江戸時代には関東の浄土宗念仏道場の中心となりました。境内には内藤家歴代の墓があり、江戸時代の巨大な宝篋印塔数十基をはじめ石造の墓塔群が二百基近く並んでいます。
補陀洛寺(ふだらくじ)
小町大路の東奥に古義真言宗の補陀洛寺があります。源頼朝が文覚上人のために建立したと言われ、 頼朝の木像と征夷大将軍二品幕下頼朝神儀と書かれた位牌があります。この寺には鐘楼がありません。北鎌倉の東慶寺の山門を入った左にあるのが補陀洛寺の鐘楼です。如何して補陀洛寺の鐘楼が此処に有るのかは分かりません。
乱橋(みだればし)
鎌倉十橋の一つですが、小さな橋です。『吾妻鏡』の宝治2年(1248)旧暦5月18日に乱橋付近に雪が降り、 その様子は霜が下りたようだと書いてあります。現在の暦ですと6月に雪が降ったことになりますので、当時の村人は驚いたことでしょう。ちなみに、鎌倉十橋のうち、鎌倉時代の記録に登場するのは、筋違橋と乱橋だけです。 「鎌倉滅亡の時に、北条軍がこの橋の付近より崩れ始めた事より乱橋」という伝説があります。
妙長寺
日蓮宗のお寺です。山号は、海潮山妙長寺。最初は正安元年(1299)に、船出した材木座沼浦に建てられましたが、後に現在の小町大路沿いに移されたそうです。日蓮聖人が伊豆伊東に流される時に日蓮聖人を救った漁師の子どもが、開山の日実上人だそうです。
元八幡宮 (由比の若宮)
大町との境近く西側に「元八幡宮」の石柱があります。小道を入ると、小さな赤い鳥居があります。頼朝は鎌倉に入ると、真っ先に先祖の源頼義・義家が勧請したこの社を参拝し、五日後に現在の鶴岡八幡宮の地に移しました。
芥川龍之介が海軍機関学校の教官をし、大正8年に結婚してこの近くに住んでいました。
境内は、鶴岡八幡宮とともに国の史跡に指定され、毎年4月2日には、源氏の守り神ゆかりの地として「由比若宮例祭」が行われています。
大町付近
現在の材木座と大町の境は横須賀線の線路によって分けられています。現在の大町と鎌倉時代の大町とは、町の範囲がだいぶ異なりますが、大町の名は鎌倉時代から用いられています。
大町四角
横筋の旧東海道(大町大路)と縦筋の材木座と大蔵幕府を結ぶ道(小松大路)の交差点です。東西と南北の物流がクロスする要地だけに早くから商業地として発展しました。
さすがに道幅は自動車用に拡幅されていますが、大正・昭和のレトロな雰囲気を残しています。
逆川橋
小町大路より小道を入ったところにあり、鎌倉十橋の一つです。 現在の道路と中世の路ではルートが違うのかと疑問を持たせる場所にあります。
下を流れる逆川が、地形の関係から海とは反対方向に流れているため、この名が付けられました。
八雲神社
大町四角の近くにあり、鎌倉最古の「厄除けの社」といわれています。 平安時代(1083)に、新羅三郎源義光が奥州へ向かう途中で鎌倉に立ち寄ったところ、当時流行していた疫病で苦しむ人が多勢いたので、京都から祇園社の祭神を勧請するとたちまち疫病が収まったので「鎌倉の厄除さん」と崇められるようになったとか。今でも祭に神輿を担いで天王歌を歌います。
常栄寺
大町四角の先に、小町大路の東側を走る小道に「常栄寺」(俗称「ぼたもち寺」)があります。文永8年(1271)9月12日に日蓮が龍ノ口の刑場に引かれていくときにここを通り、印東祐信(工藤助経の孫)妻の桟敷尼が胡麻の牡丹餅を出したところ、日蓮は処刑を逃れたので「御首継ぎに胡麻の餅」と話題になり、やがて「ぼたもち寺」と呼ばれるようになりました。
比企谷と妙本寺
比企谷(ひきがやつ)の名の由来は、頼朝の乳母比企尼がこの地に住んで居たことからこの名がつきました。当時の貴族階級では、男子が生まれると母親は育てることはせずに、乳母が育てる習慣がありました。
頼朝が清盛により伊豆に流された時に、比企尼は頼朝に食料を送るなどして面倒を見ました。頼朝が将軍になった後に、比企尼の恩に報える為に鎌倉に呼寄せ、この谷戸(ヤト)を与え住まわせたことから比企谷と呼ばれるようになりました。
頼朝は夫人の政子を伴いしばしば比企尼の家を訪れました。特に夫人が頼家出産に際し、寿永元年(1182)7月12日に比企尼の家に移り、その後10月17日迄の約3ケ月間にわたり滞在しました。
長男頼家の乳母を比企尼の養子能員(よしかず)の妻に依頼し、後に頼家は能員の娘を室として、嫡子の一幡を生みました。
比企一族の勢力が増大するにつれ、北条氏と比企氏は対立し、頼朝亡き後の二代将軍頼家が病で危篤になったときに、北条氏は比企一族を攻めて滅ぼしました。
そのとき生き残った、頼家の娘よしこは四代将軍九条頼経の妻となり、この地「竹の御所」に住みました。
また、能員の末子比企三郎能本は、日蓮の弟子となり、この地に法華堂を建てたのが妙本寺の始まりです。
夷堂橋
鎌倉十橋の中で最も大型の橋です。滑川の本流は朝比奈の辺からその源 が始まり、源流付近では胡桃川と称し、浄妙寺付近においては滑川、その下流の文覚屋敷の付近では座禅川、小町と大町の境は夷堂川、さらに下って延命寺付近、一の鳥居付近までを炭売川、材木座より海岸付近までを閻魔川と、一川に六種類の名が付けられていました。現在は滑川と総称しています。
『新編相模国風土記稿』には「昔、鎌倉が繁栄した頃は、大町の付近は商業地で、商業地と住宅地は夷堂橋を境として分けられ、橋の以北を小町、以南を大町と称した」とあります。
本覚寺
夷堂橋を渡った突き当たりに、日蓮宗の本覚寺(俗称日朝さん)があります。鎌倉時代には、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂があり、日蓮が滞在していました。夷堂は鎌倉幕府滅亡時に焼け、その後、足利氏よって本覚寺が建立されました。刀工正宗の墓と称される宝篋印塔もあります。
筋違橋(すじかえばし)
和田合戦では、幕府軍の足利義氏が和田義盛の三男朝比奈義秀と遭遇し、鎧袖を引きちぎられながら逃れたという伝説が残ります(吾妻鏡)。
宝治合戦では、執権北条時頼と外祖父の安達景盛がこの橋から有力御家人三浦泰村を攻めました(吾妻鏡)
小町大路と横大路が交差し、鶴岡八幡宮、北条屋敷、三浦屋敷、大蔵幕府が隣接する、鎌倉で最も緊要の地で、小町大路のゴールです。
大巧寺(だいぎょうじ)
俗称「おんめさま」と呼ばれて安産祈願のお守りと花の寺として親しまれています。 現在は若宮大路側に立派な出入り口がありますが、昔の出入口は小町大路の側だけで、今でも昔からの門柱が残っています。もとは十二所(朝比奈切り通しの近く)の梶原景時の館内にありましたが、元応2年(1320)、現在地に移りました。
妙隆寺
妙隆寺は日蓮宗のお寺です、寺の東の海寄りに「日蓮上人辻説法跡」があり、 西側には「宇都宮辻幕府跡」と「若宮大路幕府跡」があります。至徳2年(1385)、千葉常胤の子孫である胤貞の屋敷跡に、妙親院日英上人を開山として建立されました。
宇都宮幕府跡
頼朝が鎌倉幕府を開設以来大蔵にありましたが、政子夫人が亡くなった嘉禄元年(1225)にこの地に幕府を移し四代将軍頼経が入りました。現在は宇都宮稲荷神社が遺構とされています。
さらに11年後の嘉禎2年(1236)に北条泰時邸内の若宮大路幕府に移り、新田義貞の鎌倉攻めまでこの地に幕府を置きました。
ただし、所在地については、宇都宮辻子幕府敷地内の北側もしくは泰時の邸宅の一部に移されたという説や、場所は同じですが、入口が若宮大路に面するようになった説など諸説あって、詳細は分かっていません。なお現在、若宮大路幕府跡の石碑が建つ場所の遺跡名は、「鎌倉市No.282 北条小町邸跡(泰時・時頼邸跡)」となっており、「若宮大路幕府」の名をもつ遺跡にはなっていません。
東勝寺址
小町大路をさらに進むと、東に入る小道があり、滑川に架かる「東勝橋」を渡ると、 元弘3年(1333)5月に新田義貞の鎌倉攻めにより、北条高時以下一族総勢が自刃した東勝寺跡があります。なお、「腹切りやぐら」付近は、落石・岩盤剥離の危険性があるため、立ち入り禁止となっています。
宝戒寺
鶴岡八幡宮前の前を通り、小町大路に接続する「横大路」があり、その三叉路の前に天台宗の「宝戒寺」(ほうかいじ)があります。 この寺は、北条高時一族が東勝寺で自刃したのを弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北条氏の屋敷跡に建立したそうです。
写真は徳崇大権現会の時のもの(裏の通用門はいつも三鱗《北条氏の家紋》が見られます)。
【筆者(河島)の小町大路感想 ー 鎌倉に日蓮宗の寺が多い理由 ー 】
小町大路は道幅が狭い。片道1車線あれば広い方で、大町交差点から北に向かう大路は、小路と呼びたくなるほどの幅(4m未満か)で、車がすれ違う時は、オーバーツーリズムの権化と指弾される観光客も、電柱の陰に身をひそめなければならない。
また、小町大路沿いには寺が多い。しかも、北上し終点に近づく程に密度が濃くなっていく。さらに、日蓮宗の寺がやたらに多いのも不思議である。寺と言えばたいてい真宗と決まっている北部九州で育った人間にとって、それは異様な光景に映る。
だが、少し考えるとその謎は解ける。まず、現在は寺であるその地所の多くは、かつては武士団の長の館の址であった。若い当主が先祖伝来の居所を立ち退くか、あるいは新しい屋敷を他所に建てようとしたとき、父や祖父が生活を営んだ屋地を荒れるがままにすることは、猛きもののふといえども、感受性の面で忍びないものがあったに違いない。かといって、住む者もいない屋敷を維持するのは、いくら富裕であってもいらぬ物入りである。寺にして、なにがしかの田畠を管理費として寄進すれば、先祖の後世の弔いにもなるし、いざというときの宿所にも(要害であれば城にも)なる。いわば、富裕層の空き屋対策として寺は創建された。しかも、鎌倉の一等地である小町大路に面した館を保持していたのは、比企氏や千葉氏といった超一級の豪族たちであり(宗家が失脚しても庶家は権力を保つことができた)、その係累が「お上人さま」として寺を経営した。
北条氏や三浦氏は、さらに高級な立地の横大路や六浦道沿いに館を構えたが、戦乱により族滅の憂き目に遭ったため寺を残すことは難しかった。あるいは帰依していたのが禅宗・浄土宗という兼修を良しとする宗派であったがために、他宗への帰依を禁ずる日蓮宗と違い、寺の存続のために宗派の看板をかけ直すこともしばしば起こったに違いない。
さらに、中世の武士の都としての役割を終え、一面田畠となった江戸時代においても、鎌倉の寺々は後北条氏や徳川氏の庇護を受けることができたし、元禄以降、さまざまな縁起を創作して観光地として命脈を保つ。
かくして鎌倉小町大路は、日蓮宗の寺が不自然に多い中世の道の跡として、私たちの前に姿を表すことになる。
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