鉄を作る歴史  

八幡製鉄所記事

1.原始的な製鉄法 ― 不純物を叩き出す -

 大昔、人類は鉄を作ることができず、奇跡的に発見される隕鉄(鉄の隕石)を利用する以外、鉄製品を手に入れることはできませんでした。しかし鉄は地殻内での存在量がアルミニウムに次いで2番目に多く、原料の鉄鉱石は世界中のどこででも産出されます。人類の文明の進歩は、この豊かな鉄鉱石から鉄を取り出す技術の進歩によってもたらされたと言っても過言ではありません。  

     

製鉄は現在のところ、紀元前22世紀頃、アナトリア半島(トルコ)で始まったとされています。 初期の製鉄炉は木炭と鉱石を層状に装入し、ふいご等で空気を送って燃焼させ、そのときに生じるCOによって酸化鉄を還元したものと思われます。

 ただし、この方法では400~800℃という低い温度にしかならず、鉄はまだ溶けずに多くの不純物を含んでいます(鉄の融点は通常1500度以上)。

 だから、固い物の上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけなおしてやらなければなりません。この操作を「鍛える」といいます。さらに、これを炭に包んで熱して炭素分を加え鍛えると「鋼ハガネ」ができあがります(日本の明治以前のたたら製鉄法による日本刀製作はこの段階にあるといえます)。

2.高炉法と産業革命  ― 水車・コークス・蒸気機関 -

高炉法は14~15世紀、ドイツのライン川流域のジーゲルランドで始まったとされます。この方法と水車の活用により、鉄を溶融状態で炉外に流出させ効率よく連続して鉄を得ることができるようになりました。

(16世紀の高炉は高さ6m、日産1トン)

 15世紀末にはこの技術はイギリスにも伝播しましたが、当時高炉の燃料は木炭に依存しており、イギリスの森林資源は枯渇していきました。かわりに石炭を用いるようになったのですが、石炭には硫黄が含まれており、脆い鉄しか作れません。1709年、アブラハム・ダービーは石炭を蒸し焼きにして硫黄分を除去し高炉の熱源としてのコークスの使用に成功しました。

 コークスとは、石炭を炉の中で約1200℃の高温で乾留(蒸し焼き)して製造される炭素の塊です。水分も蒸発するので、はぜることがなく炉壁を傷つけにくくなりました。

 しかし、コークスは石炭よりも燃えにくく、今まで以上に強力な送風機が必要になります。それに応えたのがニューコメンワット蒸気機関です。石炭と蒸気機関により、高炉は森林や水流を離れて立地することができるようになり、鉄の生産能力も格段に上がって、産業革命の要因の一つとなりました。

3.熱風炉の発明 - コスパの追求 -

1828年イギリスのジェームス・ニールソンは、炉に送風する空気をあらかじめ熱風炉で加熱して炉内に送り込むことにより、炉内の熱効率を上げる方法を実用化しました。この発明により銑鉄1トンを生産するときに3トン必要とされていたコークスが2~2.5トン節約できるようになりました(従来の70%減)

さらに改良は進み、1857年E.A.カウパーれんがの格子積み熱風炉を高炉に適用しました。カウパーの熱風炉では、高炉の上から出てきた廃ガスは熱風炉に送り込まれ、強熱された耐火煉瓦の格子組みを通過する間に高温に戻り、今度は高炉の下から入って鉄鉱石やコークスを熱く吹き上げます。なお、格子組み耐火煉瓦の加熱にも同じ高炉の廃ガスを利用するので、熱風炉が少なくとも2基必要です。

一方が廃ガスを熱して高炉に送り込んでいる間、他方は高炉の廃ガスで耐火煉瓦を熱して次の段階の加熱の準備をします。送風経路を切り替えて2つの熱風炉を交互に使用すれば、高温になった空気を途切れることなく高炉に送ることができるのです。

写真の東田第一高炉の熱風炉は3本ですから、3交替で熱風を送っていることになります。

熱風炉の出現で出銑量(ドロドロに溶けた鉄の量)は飛躍的に増加し、高炉の大型化も可能になって、さらに大量の鉄を生産できるようになりました。

(1872年、高炉の高さ23m、日産65トン)

4.反射炉 - 不純物との戦い -

 高温の燃焼ガスなどを炉内に送り鉱石や金属を加熱する炉です。天井に蓄熱してその反射(輻射)熱を利用するところからこの名があります。最大のメリットは、熱源が内容物と別の場所にあるので、燃料による不純物の混入を気にする必要がないことです。デメリットは直接熱効率が低い(車でいえば燃費が悪い)ことです。

 日本では幕末に大砲製造のため各地に築造されました。佐賀藩が1850年築造に着手したのが最初で、薩摩藩・水戸藩・伊豆韮山など11基が築造されました(下右の写真は萩藩の反射炉。但し、失敗作でした)。

5.ベッセマ-転炉 - 炭素とケイ素を除去せよ -

 イギリス人ヘンリー・ベッセマ-は、溶けた銑鉄に空気を吹き込めば、熱源なしに銑鉄中の炭素やケイ素を燃焼除去できることを発見、その着想を用いて、1856年、転炉converter)を開発しました。

 当初は固定炉で、下から銑鉄を取り出すしかなく、冷えて羽口が詰まらないようにするには送風し続けるしかありませんでした。しかし、ベッセマ-は軸上に転炉をのせて前後可動式にし、送風を止めて鋼を注ぎ出すことができるようにしました。

 こうして、燃料なしにわずか20分で炭素やケイ素をほとんど除去できる「ベッセマ-傾注式転炉」を完成させました。転炉法は非常に効率の良い製鋼法で、鋼の大量生産を可能にし、貴金属並みだった鋼が安価になり、鉄橋や鉄筋建築が可能になりました。

Aは挿入作業前の転炉の状態。F:取り鍋の銑鉄(高炉で溶けた鉄)を、B:倒した転炉の装入口から注ぎ込む。装入が終わったら、Cのように直立させ、下から風を送り込む。まずケイ素が静かに、次に炭素が烈しく燃焼してその熱で銑鉄が沸騰する(1500~1600℃)。その反応によりケイ素と炭素はほとんど除去される。

 反応が終わったら転炉を再び倒し装入口から鋼をE:取り鍋に受け、I:鋳塊台に注ぎ入れる。不純物はガスになって散るか、滓になって浮いてくるので取り除く。

純粋な鋼塊のできあがり。

ベッセマ-の方法でもリンを除去できませんでした。欧州産の鉄鉱石(9割がリンや硫黄を含む)では良質な鋼を作ることができず、米・露・北欧産の高価な低リン鉱石が必要で、次世代に課題を残しました。

6.トーマス転炉 - 塩基(アルカリ)性炉材でリンを取り除け -

 早世した父に代わり一家を支えるために医師になるのを諦め、17歳でイギリスの警察裁判所の書記に就いたギルクリスト・トーマスは、学問を諦めることなく、自宅に実験室を作って、学問を続けていました。

 そして、通っていた夜学の化学教師の 転炉法の脱リン問題を解決した者は富を得るだろう」という言葉に発憤し、その解決に情熱を燃やします。

リンを除くには、石灰を加えるしかありませんが、石灰はアルカリ性なので酸性の炉材(耐火煉瓦)とも烈しく反応して炉壁を破壊してしまいます。では、アルカリ性の材料(石灰石・マグネサイト・ドロマイトなど)で耐火煉瓦を作ればいいようですが、これらの物質はもともと脆くて、すぐにボロボロになってしまうのです。

トーマスはこの矛盾を、ドロマイトを高温(1800℃)で焼成してクリンカー(焼け土の塊)にし、コールタールを接着剤にして塩基性の耐火煉瓦を作ることで解決しました。さらにこの時の鉱滓を粉末にするとリン酸系肥料になることも発見しました。

トーマスはこの方法を25歳(1879)までに発見していたようですが、特許を取っても論文を書いても誰にも気づかれませんでした。しかし、ついに29歳の時、この方法はトーマスプロセスとして、ドイツ・ベルギー・アメリカで注目され、33歳で鉄鋼協会のベッセマ-金メダルを受賞します。

しかし、長年の過労がたたって肺に異常をきたし、1885年、パリで亡くなりました。35歳でした(29歳まで、書記官と化学者を兼業しなくてはなりませんでした)。

7.平炉法  ― 転炉のライバル 反射炉と熱風炉のコラボ -

平炉とは、左右対称に蓄熱室がある一種の反射炉です。高炉でできた銑鉄を鋼にするための設備で、いわば転炉のライバルです。低く平らな形なのでこう呼ばれます。       

平炉法は1856年ドイツから帰化したイギリス人フレデリック・シーメンスにより考案されました。

平炉とは、言わば「熱風炉付きの反射炉」で、燃料は必要ですが、熱源が内容物とは別の場所にあるので、燃料による不純物の混入を気にする必要がありません。

 また反射炉のデメリットだったコスパの悪さも、安い燃料(泥炭など)を利用することでカバーできました。

 原料を鉄鉱石・銑鉄・くず鉄から、配合も含めて自由に選択でき、転炉法よりも広範で優れた成品品種の生産ができるため、製鋼法の主流を占めるようになり、1955年には世界の粗鋼の80%以上を生産するようになりました。

 官営八幡製鉄所で明治34年(1901)5月30日に、ドイツ人職工長2人により、平炉1基が作業を開始しましたが(計画は塩基性4基、年間6万トン)、月産620トンの生産しかあげられませんでした。操業法はスクラップ法(くず鉄配合比60~65%)でした。同年11月には、10トンベッセマ-転炉も吹製を開始、明治35年には転炉2基での稼働となっており、創業時は平炉と転炉を並行して運用しようとした様子が見て取れます。しかし、その後は平炉を中心とした設備拡大が顕著になり、その姿勢は1950年代まで続きます。

8.新しい技術 - 戦後も技術革新は続く -

第2次世界大戦とその復興のなかで、製鉄技術は急速に進歩します。以下、箇条書きにまとめてみます。

(1)高炉の改良 

 ア、鉱石事前処理の技術の進化

  ・鉄鉱石の整粒 

  ・粉鉱の焼結、ペレット化(鉄鉱石と石灰石を焼き固める)など

 イ、高炉を密閉して炉頂圧力を高くすることで、ガスの上昇速度を遅くして、原料とガスの接触時間を長くし、コークス量を節約する。

 ウ、送風の酸素を増やし、熱風温度を上げる(1200~1300℃)。

 エ、水蒸気添加、重油・天然ガス・微粉炭燃料の熱風への吹き込み。

 オ、高炉内反応の解析に基づく管理技術の発達

 鉄鉱石とコークスは交互に60cm厚の層をなすように積み重ねられます。反応は間断なく進み、鉄鉱石とコークスの層は1時間に3mずつずり下がり、装入からだいたい8時間後に銑鉄(溶けた鉄)になります。

 最新鋭の高炉では、1日に1万5000トンの鉄鉱石と5000トンのコークスから、1万トンの銑鉄と7000トンのスラグ(鉱滓)が作られます。

(2)転炉の復活 - 純粋酸素の利用 -

 従来のベッセマー転炉では、前述のような理由でリンや硫黄の除去が難しいため、使用する鉄鉱石の種類に制限がありました。さらに普通の空気を吹き込むために窒素が溶鋼に吸収され鋼材が脆くなるという欠点もあり、20世紀前半には平炉に圧倒されることになりました。

窒素の問題は平炉にもあり、製鉄技術者の大きな悩みでした。

これを解決したのが、リンデの空気液化装置の技術を応用した、純酸素上吹き転炉によるLD転炉法です。1949年、オーストリアのリンツで試験操業に成功し、1952年からドビナッツで本格操業に入りました。LDは試験操業に成功した工場があった地名の頭文字から取ったと言われます。

 LD法は、炉体の中心線上の炉口よりランス(酸素を送り込むパイプ”lance槍”)を熔けた銑鉄の直上に降ろし、純酸素ガスを吹付けて炭素やケイ素と反応させます。炉を回転させるときは,ランスを上方に引き上げます。

 炉底は羽口がないので破損や故障が少なく、耐火物は塩基性で脱リンに効率的です。酸素上吹きはベッセマーの特許にもみられますが、当時は酸素が高価で実現しませんでした。その後リンデ‐フレンケル法により高純度の酸素が安価になり製鋼への利用も可能になったのです。

LD法は純酸素を極端な低窒素鋼が容易に得られ、熱効率が高く、できる鋼質は平炉鋼よりも優れています。さらに原料選択の自由度,コスト,生産性の面でも平炉法より優れていたため,1960年代以降、急速に平炉法にとって代わりました。

 日本では 1957年、八幡製鉄所を皮切りに、世界に先駆けてLD転炉法が導入され、 一躍、製鋼技術で世界のトップに踊り出ました。

 その後、底吹き法や上底吹き法など、純酸素を用いる製鋼法は進化を続けています。転炉の容量が400トン近いものもあり、廃ガス回収装置や種々の感知装置を取り付けてコンピュータ制御を行うなどし、現在の粗鋼の70%近くを生産しています。

10.電炉 - 脱炭素社会への動き -

 日本国内で排出される二酸化炭素(CO2)のうち、産業部門内の4割近くを占めているのが「鉄鋼業」です。日本では鉄の大半が「高炉」でつくられていて、その過程で大量の二酸化炭素が排出されます。しかし、地球温暖化問題をきっかけに脱炭素化社会への取組が叫ばれるようになりました。

 いま注目されているのが「電炉」を使って鉄をつくる方法です。原料は鉄スクラップで、廃車のボディーや空き缶などを電極の熱で溶かし鉄を再生するやり方で、二酸化炭素の排出を抑えられるとされています(先進国はスクラップが多い)。

 気になるのは電炉と高炉のコストの違いですが、最近は二酸化炭素の排出量が少ないという理由から、電炉のコストが高くても電炉の鉄を購入する企業もあるということです。

鉄鋼業界では大手も高炉から電炉へ転換する検討を始めていて、脱炭素に向けての動きが加速しそうです。

【時事ネタコーナー 日本製鉄の思惑 2023年、9月と12月】

日本製鉄、USスチール買収の狙いは?

                    日本経済新聞 2023年12月20日 5:00

 国内鉄鋼最大手の日本製鉄は12月18日夜、アメリカの老舗、USスチールを約2兆円で買収すると発表しました。

成長市場の米国強化

 日鉄は先進国最大級の市場規模で成長も見込める米国の需要を取り込みます。粗鋼の生産1トンあたりの純利益で見るとUSスチールなど米国大手は日韓大手を大きく上回っており、利益率の高い市場です。

 日鉄はEVモーターに使う鋼板など高い技術力を持っており、USスチールが保有する製造効率が高く温暖化ガスの排出量を抑えた電炉と相乗効果を狙います。

中国内需不振の影響回避

 世界の粗鋼生産量では、中国が2022年に半分以上を占めるほどに急拡大しています。中国の内需が冷え込むと余った鋼材がアジア圏を中心に流れて市況を悪化させ、日鉄などの利益を押し下げる要因になっています。米国は地理的に中国で頻発する鋼材不況のあおりを受けづらく、買収で市況に左右されにくい事業基盤の構築につなげます。

労組反発など不透明感も

 もっとも買収実現に向けては不確定な要素もあります。USスチールの従業員らが加盟する全米鉄鋼労働組合(USW)は早速「失望したといっても言いすぎではない」と反対を表明。バイデン米大統領も大企業のM&Aを厳しく審査する姿勢を示しており、規制当局の承認が焦点となっています。日鉄は買収の実現に向け、株主や労働組合などに十分な説明が求められています。

【ネットニュースから】

 USスチールを買収して日本製鉄から電磁鋼板などで技術供与し、米国現地生産・現地販売を拡大するすべを得ることは大きなメリットです。 また、経済安全保障の観点から米中で経済分断が進みつつありますが、USスチール買収で米国に深く入り込むことができれば、そのメリットは極めて大きいと考えられます。

 USスチールの強みは原料である鉄鉱石の鉱山をアメリカ国内で所有していることです。 2022年には1300万トンの生産量を記録したアメリカ最大のミンタック鉱山を、ミネソタ州に所有しています。原料を100%自給自足できます。

かつて世界最大の製鉄会社だったUSスチールが日本製鉄へ身売りした理由、凋落するアメリカの製鉄業界

中岡 望  

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

なぜUSスチールは身売りしなければならないのか

 USスチールは1901年に設立された122年の歴史を誇るアメリカを代表する企業のひとつである。同社は、発足当初からアメリカの鉄鋼生産の3分の2を占める大企業であった。20世紀のアメリカ資本主義の繁栄を支えてきた企業である。当時の同社の企業価値は10億ドルを超え、アメリカの国家予算の倍以上であった。同社は世界最大の企業で、アメリカをグローバルな超大国に押し上げる役割を果たした。同社の圧倒的な市場支配力を規制するために独禁法が制定されたほどである。

 だがUSスチールは圧倒的な地位を維持することはできなかった。1970年代以降、同社の地位は低下し始める。同社の従業員は第2次世界大戦中の1943年は34万人であったが、現在は1万5000人にまで減っている。

 生産量がピークに達したのは1953年で、3580万トンであった。だが2022年の出荷量はわずか1120万トンにまで減っている。同社の衰退の原因は、日本と西ドイツの製鉄企業との競争に負けたことである。日独は最新の技術を使い、競争力のある製品を生産した。だがUSスチールの生産拠点は内陸のピッツバーグにあり、高い輸送コストがかかった。日独が最新の設備を導入したのに対して、USスチールは旧態依然とした設備を使い続けた。最近になって競争企業として中国、インド、韓国の企業が台頭し、アメリカの製鉄企業の衰退が加速した。

 “総合製鉄企業”は、国内市場では小さな設備で操業するミニ・ミル(mini-mill)や非労組の製鉄企業との競争でも敗北していった。代表的なミニ・ミルはNucor Steelで、最近時点の株式時価総額は425億ドルに達している。USスチールの時価総額は140億ドルに過ぎない。Nucor Steelは、生産高で全米1位の企業に成長している。総合製鉄企業は、海外企業との競争と国内でのミニ・ミルとの競争を過小評価し、十分に対応できなかったことが、衰退の原因である。さらに追い打ちをかけるように、脱炭素化の要請が強まり、単独での技術開発が困難な状況に置かれていた。 

 ニューコア・コーポレーション

(英語:Nucor Corporation)は、アメリカで最大の鉄鋼メーカーである。 いわゆるミニミル(規模が小さい電炉で高効率な生産を目指す)で最大の企業でもある。2017年の粗鋼生産は約2439万トンで、USスチールの1443万トンを遥かに超え、世界11位である。

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