試論 宇都宮系山鹿家政は宇都宮氏か?                                                     

鎌倉記事

山鹿庄

 「山鹿」といっても、現遠賀郡芦屋町の遠賀川東岸地域だけではない。山鹿島(現若松区および芦屋町山鹿地区)が、大宝3年(703)に創建中の観世音寺の製塩地として施入されたのを皮切りに、平安時代以降、山鹿庄として「三郷三村」(折尾郷・在毛郷・安屋郷・熊手村・藤田村・穴生村)を中心に、麻生庄・二島郷・小倉村を加えて、現在の若松区・芦屋町・八幡西区・八幡東区・戸畑区を含む大荘園に発展した。領家職や本家職の詳細は明らかではないが、観世音寺を末寺とした東大寺、鎌倉時代の摂関九条家などが知られ、地頭職では源頼朝・北条政子・北条義時などが有名である。

 山鹿兵藤次秀遠は、有力な大宰府官人菊池氏の出身とみられ、山鹿庄下司職として、山鹿庄・粥田庄(鞍手郡)など、洞海湾および遠賀川の沿岸全域に勢力を伸ばし、九州でも有数の平家与党としてその支配を支えた。

『尊卑分脈』にみえる山鹿家政

 平家が滅亡し山鹿兵藤次秀遠が没落した後、遠賀郡に「宇都宮系山鹿氏」が関東から下向してくる。『吾妻鏡』など信頼できる資料にはほとんど登場することはないが、この一族で初めて遠賀郡に入部したのは「家政」と思われ、それ以前の人々は創作の可能性が高い(竹中岩夫『鎌倉時代の麻生氏とその一族』)。

 系図類で最も信頼がおけるとされている『尊卑分脈』では、宇都宮系図の中に家政が見出され、

「朝綱猶子 実父高階氏業遠子 成佐曾孫 一品房昌寛子也」つまり「家政」は宇都宮朝綱の猶子で、高階氏出身の一品房昌寛の子と註記されている。

 「猶子」とは、実子・養子と違って家督・財産相続はできないが、社会的な後ろ盾を仮親から得る「猶(なお)子のごとし」とされる存在で、養子と違って実家の姓を名乗ることが多い。であれば家政は、藤原系宇都宮氏の当主「朝綱」(『鎌倉殿の13人』の1人、八田知家は朝綱の弟かつ庶家である)の社会的な後盾を得てはいるものの、猶子であれば、当初は父(養父)昌寛と同じ高階姓を名乗ったはずである。

 しかし、家政の孫である(麻生)資氏には、文永9年(1272)に昌寛の「高(階)」ではなく、宇都宮氏の本姓と同じ「藤原」で安堵状が下されているので、幕府草創からの80年間の間に、何らかの理由で出身を宇都宮氏に乗り替えた可能性がある。

 この辺の事情を伝える記録・文書は皆無だが、江戸中期の成立ながら「鎮西要略」は、奥州合戦の勲功により宇都宮家政(朝長の二男)は筑前国山鹿庄を賜ったと述べている。

 この戦いで宇都宮朝綱は嫡子・業綱、宇都宮一門(八田知家ら)ならびに紀清両党とともに参陣して功績を挙げ、頼朝から「坂東一の弓取り」と賞賛されており、あるいはその恩賞の一部が宇都宮一門の家政に与えられれたのかも知れない。

『麻生文書竪系図』にみえる山鹿家政

麻生系図中で次に信頼できるのは、戦国末期に17代当主麻生隆実が記した『竪系図(麻生文書143)』である。同系図において朝長は、中流公家の「高階」ではなく、上流公家「勧修寺一流」であるとされる。註記によれば、朝長は配流先の上総国十文字郷で宇都宮親俗の一品房昌寛の親類と結ばれ広綱・家政の二子を得る。やがて頼朝の御祈師として出世した昌寛は、母方の縁者である次男の家政を養子として「山鹿庄所々を譲與」したとする。

ここで高階氏出身の一品房昌寛は「宇都宮親俗」となり、宇都宮氏との関連は継続されているが、むしろ、家政の父「朝長」の出自の高貴さと山鹿庄の譲与の正当さに記述の力点が置かれている。

なお、麻生氏が自らの始祖を「高階」から「勧修寺」に替えた時期や理由は全く不明である。(明治期の麻生氏関係の方々も気になったのか、いろいろ苦しい理由付けをしておられる。ちなみに私は、観応の擾乱による高氏の没落と上杉氏の興隆が理由ではないかと妄想しているが、今のところ根拠のある話ではない。高師直に代表される高氏は高階氏、上杉氏は勧修寺の出身である)

 蛇足ながら、筑前宇都宮氏(藤原)と豊前宇都宮氏(中原)を同族として扱うむきもあるが(佐田系図等)、中世の全期間を通じて両氏間の交流を示す資料は発見されておらず、両宇都宮氏は別々の氏族と考えたほうがよいとおもう。よって、本来「高階」を名乗るべき宇都宮系山鹿氏が、家政以前の始祖を「宇都宮(藤原)」に結びつけるのは、あくまでも自己都合であり、豊前宇都宮氏からの影響や気兼ねではないことを附記しておきたい。

【竪系図より、麻生氏朝長・昌寛・家政の註記を抜粋】 

左衛門尉朝長

公家勧修寺一流。流人となりて京路(洛?)より上総国十文字郷へ下向、
年月日時を経て朝長、成勝寺執行一品房昌寛の親類に相嫁す。
その子は廣綱家政の両人なり。一品房は頼朝大将の御祈祷師となるにより平家追討の時、
山鹿兵藤次秀遠跡の筑前国山鹿庄を頼朝より下し給う。その後、朝長の次男家政を養子と為して
昌寛より山鹿庄所々を之に譲与す。建久・承元・承久の御下知に見ゆ。

【メモ】

・(上流貴族の)勧修寺一流の朝長は、流人として上総国十文字郷に下向した。

・そこで一品房昌寛の親類と結婚し、広綱・家政の2人の子を得た。

・一本房は朝長の次男家政を養子とし、山鹿庄を家政に譲った。

・一本房は頼朝の祈祷僧となり平家追討の功として、山鹿秀遠跡を拝領した。

・これらのことは、建久・承元・承久の下知状に見ることができる。

家 政

朝長の次男なり。山鹿庄へ下向の時、宇都宮の養子となり、巴の幕を昌寛より之を譲らる

【メモ】

・家政は、(公家の)朝長の次男である。

・山鹿庄に下向するときに、宇都宮氏の養子となり、昌寛から巴の幕を譲られた。

昌 寛

成勝寺執行一本房は宇都宮親俗なり。

母方の親類なるに依りて家政を養子と為して山鹿庄所々を譲り之をあたう。  

 【メモ】

・成勝寺執行である一品房昌寛は宇都宮の親俗である。

・勧修寺出身の公家である朝長の次男「家政」は、昌寛の母方の親類である。

・昌寛は家政を養子にし、山鹿庄を譲りこれを与えた。

一品房昌寛とは

 『尊卑分脈』によれば昌寛は高階氏の出身で、母方の親類に下野宇都宮氏があったという。

 高階氏は、天武天皇の皇子高市皇子の後裔で、摂関家との姻戚関係で繁栄し,一族から多くの公卿を輩出した。また摂関家の家司や院の近臣として権勢をふるった者も多く、後白河院に近侍した藤原通憲(信西)、同院の寵姫丹後局(たんごのつぼね)高階栄子、平重盛の母も高階氏出身である。文筆・計数を家業とする中級官領貴族として平安・鎌倉時代に活躍した。

 ところで「一品房」とは何であろうか。字義通りなら、昌寛は「本人または父が一品の僧」あるいは「一品親王の関係者の僧」となるが、前者は身分的に無理であり、後者も当時一品親王は在籍していないことから可能性は低い。だが、同音の「一本房」ならば手掛かりはある。「一本御書所に関わったことがある僧」となり、高階氏出自の昌寛の履歴にふさわしい。

 「一本御書所」は、平安時代、世上に流布している書籍を筆写して、もう一本を所蔵しておく役所(現在の国会図書館に相当)で、平治の乱においては後白河法皇が幽閉された所でもあった。平治物語に「(後白河法皇を)一品御書所におしこめたてまつる」とあり、幕府創設時に源頼朝の使節として朝廷と交渉を重ねることになる昌寛と法皇の接点を見いだすことも可能である。もとより私の力ではこれを証することはできないが、管見の限りこのことを論じたものを見ないので、可能性のひとつとして提示しておきたい。

  『吾妻鏡』によれば、昌寛は源頼朝の御祈師で、重要な文士(武士ではない御家人)の一人である。治承5年(1181年)頼朝の長女・大姫の小御所や鶴岡八幡宮の普請にも携わった。寿永3年(1184年)、源範頼に属して平氏追討のために九州に下向したほか、文治5年(1189年)頼朝の使節として上洛し、藤原泰衡追討宣旨を朝廷に要求するなど朝廷との交渉を担当し、同年の奥州合戦にも従軍した。

 建久元年(1190年)頼朝の上洛の際は、二階堂行政と朝廷への進物の奉行し、さらに中原親能や大江広元とともに法住寺殿の修繕も奉行した。全国に所領があったが、北部九州では成勝寺執行であった縁で、旧山鹿秀遠跡の筑前国遠賀郡山鹿庄、鞍手郡粥田庄等の代官(地頭は源頼朝)を務めた。

 建久3年(1192年)頼朝の庶子(後の貞暁)の乳母への就任を打診されたが、頼朝の妻政子の嫉妬を恐れて辞退した記事が見える。建久六年(1195年)を最後に昌寛は史料から姿を消すが、彼の一族に関する記録は娘の事績以外見いだせない。娘は第二代将軍源頼家の側室となり、三男栄実、四男禅暁を産んだ。元久元年(1204年)7月18日、頼家は横死し、娘は三浦義村の弟胤義と再婚したが、胤義は承久の乱で上皇側の主力として奮戦し敗れて自害した。栄実、禅暁も後に北条氏への謀反を企てて敗死したとされる。その後、昌寛の娘がどんな人生を歩んだかを語る史料はないが、明るかったとは思えない。

あこがれの宇都宮

 2022大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」も終盤を迎え(この記事は2022年10月に書いたものを元にしています)、粛清・老衰で主要キャストも減ってきた。その中で俄然存在感を増してきたのが八田知家(市川隼人)である。

頼朝に対してはあいさつこそ敬語だが基本はタメ口。範頼・義経には完全に上から目線。北条・三浦の人々をつねに小僧あつかいし、宿老の合議の場ではいつも壁にもたれかかって襟をくつろげている(大胸筋がセクシーと人気らしい)が、だれも咎める者はいない。性格異常とも思えるが、言動はつねに正鵠を射ており、周りからの信頼も厚く、「武衛」の真意を知るなど教養も高い。いったい何者なのだろうか。

今でこそ餃子の街として有名になった宇都宮だが、もともとは宇都宮二荒山(ふたらさん)神社の門前町として発達した。平将門の乱では藤原秀郷が、前九年・後三年の役では源頼義・義家が戦勝を祈願している。

奥州への軍事基地として、十二世紀には多くの軍事貴族が進出した。朝廷内に部門的地位を築いていた紀氏一族の波賀氏、豊前宇都宮氏の始祖となる中原姓宇都宮氏、さらに藤原姓八田朝綱、頼朝の側近で近江源氏の佐々木氏など、武勇に長け文事にもすぐれた「京武者」が集住していた。

後世からすると意外だが、当時の京武者は、武勇・装備とも関東や九州の兵よりも精強だったらしい。地方豪族が在庁官人職以外に院武者所や受領名をもつのは「京武者」であることをアピールしたかったからである。

こうした「京武者」の中から1184年、源頼朝は、広大な神領を持つ宇都宮社務職(総責任者)として、藤原朝綱(八田知家の兄)を承認した。その背景としては、宇都宮一族が頼朝の挙兵に参陣したことに加え、朝綱の抜群の財力とステータス(鳥羽院武者所・後白河院北面・左衛門尉、これらの官職は私称ではない)・院権力周辺との人脈・姉妹に頼朝の乳母の寒河尼(小山政光の妻)がいることなどが上げられる。無理に例えるなら、幕府の筆頭株主にして副社長と言ったところだろうか。大河ドラマの八田知家の傍若無人ぶりと優れた知識・教養は、宇都宮氏の特徴を脚本家の三谷氏がうまく演出したものであろう。

【法然上人行状絵図 宇都宮蓮生】※中央右の白衣の騎馬武者が宇都宮蓮生(頼綱)

朝綱の子の成綱(知家の甥)は早世したが、孫の頼綱は北条時政の娘を妻とし、歌人としても有名で「勅撰続千載和歌集」にも入集している。藤原定家とも親交が深く、京都や宇都宮に歌壇を形成し、後に「小倉百人一首」の元となったとされる色紙(明月記1235年5月27日)を贈られている。出家して「蓮生」と名乗って以降は、浄土宗の法然に帰依し、嘉禄の法難にあっては法然の遺骸を死守(その様子は「国宝法然上人行状絵図」に描かれている)、高弟の親鸞の関東入りにも関与したらしい。紀清両党と呼ばれる強大な武力を誇り、弘安の役において第八代貞綱は、御家人の総大将として、山陽・山陰の兵六万を率いて九州に下向しており、その功で引付衆に任じられた。第九代公綱と楠木正成との天王寺での対峙の場面は、太平記屈指のハイライトとなっている。

 後世の麻生氏の人々は、「家政」以前の家系を、可能な限り宇都宮氏に寄せ、つじつまをあわせるかのように様々な説話を創っている。それは宇都宮氏の眩いばかりの姿へのあこがれが感じられる。たしかに数ある有力御家人の中でも、宇都宮氏は武力・財力・文化力において抽んでている。

少弐・大友をはるかに凌ぐ家名の高さとその存在感を、麻生氏の人々は明治にいたるまで忘れることはなかったのである。

山鹿家政と一品房昌寛の接点

『尊卑分脈』『竪系図』とも、山鹿家政は昌寛の養子となり山鹿庄を譲られたとするが、それにしても「一所懸命」の時代、昌寛は家政をよくよく信頼したものだ。二人はどこで出会い親交を深めたのだろうか。

『尊卑分脈』では、昌寛は高階氏の出身とされているので、鎌倉に勤仕する前は京都にいた可能性が高い。『一品房』の名乗りが「一本(品)御書所」にちなむものであれば可能性はさらに高くなる。

後に宇都宮朝綱の猶子となっているが、宇都宮氏は有力な「京武者」で、朝綱自身、鳥羽院武者所・御白河院北面を務め、頼朝の挙兵時には京都に在住しており、源氏との関係を疑った平清盛に抑留されているので、朝綱と昌寛も京都で親密になったと思う方が自然である。

『竪系図』では家政の実父勧修寺朝長が、配流先の上総国十文字郷で、宇都宮親俗の昌寛の母方の親類の娘と結婚して広綱・家政の二子をもうけ、後に出世した昌寛が次男の家政を養子に迎えて山鹿庄を譲り、九州下向の時に「巴の幕」を家政に譲ったとされる。

だが、有川宣博氏によれば、勧修寺諸系図に朝長は見えず、上総国に十文字郷は存在しないそうで、朝長配流のエピソードは後世の創作の可能性がある。となれば、宇都宮親俗の昌寛と勧修寺一流の朝長(存在すればだが)が結びつくのは京都以外では難しい。

平家滅亡後の昌寛の活動が、後白河法皇や公家との折衝、法住寺殿や東大寺大仏の再建など京都近郊を対象としたものが多いのも、彼の人脈が京都を中心としたものであることを示すものであろう。

 また、幕府でも指折りの文士である昌寛から見れば、文字に暗い関東武士は言うに及ばず、凡百の官人では能力的に物足りなく見えたに違いない。その眼鏡にかなった家政は、計数や法律に明るい相当のやり手だったはずである。このような能力をもつ者は関東にはほとんどおらず、幕府の有力御家人たちはツテを頼って京都でスカウトするしかなかった。

想像をたくましくすれば、昌寛は範頼に従って鎮西に下向し、平家を討滅した直後に、惣地頭として(浅野真一郎「平氏与党人山鹿兵藤次秀遠跡の処分について」)、遠賀・鞍手郡の監督を命じられる。しかし、頼朝の側近としての職務があまりにも多忙で、現地で任に当たることはほとんどできなかった。そこで京都在住の高階氏(昌寛の実家)の縁者で、下級官人上がりの「家政」をスカウトし実務を代行させた。

家政は自分の一族(資家・家長・惟信・惟綱ら)を引き連れて九州に下向し、山鹿秀遠跡のいくつかの荘園(山鹿庄等)を直接支配しつつ、沙汰人(惣地頭)代として関東御領(後に北条政子・北条義時領)を管理し、遠賀川に沿う諸荘園を統括した。昌寛は家政の有能ぶりを見て、家政と父子の契りを結び、職務の遂行と収入の確保を図ったかと思われる。

家政伝説(子孫だけの)

ここからの話は歴史とは全く関わりがない。しかしながら100年以上前の記録であれば、歴史的記録と思う人がいるかも知れない。ご注意を。

以下は江戸後期から明治以降の麻生家の人々が信じていた(かもしれない)始祖伝説である。

めったに目にすることがないので、とりあえず本文をそのまま或いは書き下して掲載する。

ところどころ筆者が勝手に歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直したり意味を補ったりしているが、校訂に不安をお持ちの方は、『九州史料叢書 麻生文書』でご確認いただければと思う。

※( )数字は九州史料叢書の麻生文書番号。

麻生系譜 全(麻生文書145)

小三郎兵衛。父重業同時、前にあれば認めず。西念寺殿と号す。墓は不詳。女房は高倉院の皇姫。平家衰運に至り、先のことを察せられ、誠臣、氏尾蔵人、夫婦に指を添えられ、筑前国山鹿庄の平家武者所山鹿兵藤次秀遠に預け賜う。 

文治元年、安徳天皇を始め平家一門入水す。蔵人は筑前国糟屋郡城戸山の山中に(身を)隠し、蔵人は樵夫となりて忍び給う(城戸山山中に於いて平家岩という古跡あり。小瀧あり)。朝長、頼朝へ皇姫を請乞し、家政の女房とす。 

この皇姫勝れて容貌美麗なり。ある時、何者か山鹿亀ノ尾大手に短冊を貼り付ける。 

紅梅の花より増さる姫御前は詠むに飽きぬ洩る千鶴  

是より紅梅の名を揚げ給う。臨終後、山鹿村法林寺において、千手御前の墓あり。すなわち千鶴御前なり。また、熊手村において地蔵堂を造立す。紅梅地蔵と崇め奉る。これまた、千鶴御前なり。御母公は建礼門院。(氏尾蔵人は後に林靱負と改め、墨染衣を着、岩屋の竹庵に居住す)

 要するに、山鹿家政は高倉上皇と建礼門院の皇妃を嫁にした。その皇妃は歌に詠まれるほど美貌で、紅梅姫とも千鶴御前とも呼ばれ、山鹿村法林寺(現芦屋町山鹿法輪寺)や熊手村紅梅地蔵(八幡西区黒崎熊手)に遺蹟を残している、というものだ。

 ちなみに「父重業同時、前にあれば認めず」とは、「源平砺波山合戦にて、頼朝、謀命を下賜す。白装束、白帽子、白雲月毛の馬に乗り、闇夜、南黒坂谷にて、道引き申すと大音声。平家誠と請け、倶利伽羅山十余丈の谷底に平家の大軍、雨丸雪の如く落ち入るをみちびく。重業、家政はその内なり。表向きは砺波八幡宮のお導きと執りなさる」のことを指したもの。

 つまり、倶利伽羅峠の戦いにおける源義仲の大勝利は、頼朝の密命を受けた家政と父朝長・兄重業のおかげであると主張しているのである。

 私でもわかる、これは「歴史的事実」ではない!

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