小嶺村(遠賀郡) 福岡県地理全誌巻之三十九  

村別 福岡県地理全誌

51.小嶺村

[現在地名]

八幡西区小嶺1―3丁目・小嶺・小嶺台1―4丁目・千代1丁目・船越3丁目・大平3丁目

 

(二十一小区三村の内)  小嶺村  (地理全誌P671)

(西南)福岡県庁道程十五里

疆域 南 畑村(十八町)。西 香月村(二十四町)。下上津役村(同上)。東北上上津役村(七町)に接し、人家 本村(三十五戸)、岸高(二戸)、三畝田(二戸)、三所にあり。小峰とも書けり。古は上上津役村に属せり。

村位、下。地形、山址(さんし:山の麓)に在りてやや高く、運送の便、下(黒崎駅官道三町)。土質、東は赤土にて石交じる。東北は黒真土(くろまさど:花崗岩が風化してできた砂状の土壌)小石交じり。西は埴土(へなつち:粘土質の土)。七分は乾地。三分は湿地。地味、下。田は、中晩稲・麦・薬種(漢方薬の原料)畑は、麦・薬種・琉球芋(サツマイモ)等を作る。旱損(日照りの害)の患あり。土産は生蝋。

 

○戸口

一 戸数 四十二戸

   平民

一 口数  二百六口

      内

  一 男 九十九口

      一 女  百七口

(職分)従者(男一人) 農(男五十人、女十六人) 工(男一人) 

    雑業(男九人、女十人) 

○田圃

一 田畑段別(広さ) 十八町一段九畝十歩

   この石高        百八十九石四斗九升八合

     内

    一 田段別       十三町四段六畝八歩

   この石高  百七十六石七斗一升四合

    一 畑段別     二町六段四畝八歩

       この石高    十二石七斗八升四合

  一 大縄田畑段別  二町八畝二十四歩

      ※「大縄」新開田などで地質・水利が悪く、収穫が不安定である土地に対しては、その段別だけを改め、石高を付けずに低率の年貢を課しました。

○租税      ※ 明治四年(1871)新貨条例により1両=1円

       ※ 明治7年の1円は、現在の価値で2万円ぐらいです。

一 米大豆   八十九石八斗二升六合      正租

      この代金  二百四十八円四銭二厘

     内

    一 米   八十二石四斗一合

      この代金 二百十八円八十七銭八厘

  一 大豆  七石四斗二升五合

   この代金 二十九円十六銭四厘

一 米大豆   二石六斗九升五合          雜税

      この代金 七円四十四銭二厘

        内

    一 口米  二石四斗七升二合

      この代金 六円五十六銭六厘

    一 口大豆   二斗二升三合

      この代金   八十七銭六厘

一 金 一円二十一銭八厘

○ 山林

一 山段別三十六町七段七畝二十歩

    内

    一 二十一町六段六畝二十歩      官林

    一  十三町四段  二十歩            草山

    一         三段三畝 十歩        元古野山

    一     六段九畝 十歩    元證文山

    一     六段七畝二十歩            社山

○ 橋梁

一 橋 六所

  一石橋 一所(中嶋川筋障子葉山 官費 長一間七寸 幅一間三尺九寸)

    一 同  一所(用水溝筋茶屋原 民費 長一間一尺九寸幅一間五尺二寸)

    一 同  一所(中嶋川筋木戸   同上 長一間三尺 幅五尺)

    一 同 一所(同川筋 川祭   同上     同上   )

    一 同 一所(同川筋 木戸   同上     同上   )

○ 池塘(堤)十二所

                  内

  一 一所(葉山谷 新池 官費 水面六畝歩 水掛田九反歩)

           寛保二年(1742)壬戌築立

  一 一所(原   新池 同上 水面二反歩 水掛田六反歩)

      天保五年(1834)甲午築立

  一 一所(浦ノ谷    同上 水面四反歩 水掛田二町五反歩)

  一 一所(葉山谷    同上 水面一反二畝歩 水掛田一町五反歩)

  一 一所(葉山谷 一作 同上 水面三畝歩 水掛田一反三畝歩)

  一 一所(原      同上 水面五畝歩 水掛田五反歩)

  一 一所(山ノ神    同上 水面五畝歩 水掛田一町歩)

  一 一所(芋地谷    同上 水面五畝歩 水掛田二町歩)

  一 一所(宇津保谷   同上 水面五畝歩 水掛田二反歩)

  一 一所(芋地谷    同上 水面一畝歩 水掛田一反五畝歩)

  一 一所(鴻巣     同上 水面三畝歩 水掛田三反五畝歩)

  一 一所(小猿喰    同上 水面三畝歩 水掛田二反五畝歩)

            以上十所築立年不詳

○ 牛馬

一 牛 二十七頭

       内

  一 牡   六頭

  一 牝 二十一頭         

一 馬  十一頭

              内

    一 牡   七頭

    一 牝   四頭

○ 学校

一 小学校(本村)

  生徒 二十八人

              内

  一 男 二十五人

    一 女   三人

○ 電線

一 機柱 十二本 (従 四百八十七号  至 四百九十八号)

    北 上上津役村界より 南 香月村界に通ず。 道程七町四間五歩 

○ 河渠(川とみぞ)

           則松川

水源 村の裏、葉山より出で、村の中央を過ぎ、上上津役・下上津役・永犬丸・則松・本城・陣原の六村を経て海に入る(中嶋とも云う)。

総計二里十四町五十四間。清水。上上津役村まで急流、以下、緩やかなり。則松村の枝郷氏田まで潮上る(川口よりおおよそ三十町あり)。村内長二百間、幅一間半。平水五寸。満水三尺。石橋一所(障子葉山)。土橋三所(木戸二所、川祭)

○ 神社

      (村社)杉守神社

香月村にあり。

    小社三所

八千鉾神社(村の東二町、北邊良(きたべら)にあり。祭神 大己貴命。相殿  天照大神 春日大神。祭日 九月二十日。里民、誤りて八千矛を天王と称す。

 ※「天王」は「牛頭天王」。日本においてはスサノヲノ命(みこと)に習合され、八坂神社などに祀られて病気や災いを除く神として信仰されている。

豊日別神社(鹿松かのまつ)。山神社(山の神)

○ 仏寺

  一 小堂一所 

観音堂(辻)

○ 墳墓

    清兵衛三郎墓

一は、村の南七町の仏山にあり。松を表とす。一は、村の東三町、圃中にあり。老榎の本に表石を挟めり。銘文なし。二人はこの村の農夫にて慶長七年壬寅、田地を墾開して功をなせし者なり(一説に三郎を喜兵衛と云う)。

○ 附記

    物産

一 米   三百石

一 麦          七十石

一 大豆            十三石

一 小豆          二石

一 豌豆(えんどう)      一石五斗

一 唐豆(そらまめ)      一石

一 蕎麦(そば)     十二石

一 琉球芋(さつまいも)  五千斤(3000kg)

一 茶           八石

一 鶏          八十羽

一 鶏卵         二千

一 茶           五石   輸出       この代金  二円五十銭

一 鶏卵         千五百                  この代金  九円

一 櫨実(ハゼの実)   八十斤            この代金九十六円

一 生蝋         四千斤(2400kg)  能美儀平製 この代金 五百円

   総計  六百七円五十銭

  ※ 明治7年の1円は、現在の価値で2万円ぐらいです。

【八児クイズ:明治編】

明治5~7年(1872~1874)の調査結果を掲載した「福岡県地理全誌」からの出題です。当時、八児は小嶺村の一部でしたので、「小嶺村」についての出題になります。

問1 明治7年、小嶺村には家が何件あったでしょうか?

  ア、約10軒 イ、約40軒 ウ、約100軒  エ、約400軒

問2 明治7年、小嶺村では、何キログラムのお米が取れたでしょうか?

  ア、約300kg イ、約3000kg ウ、約30000kg エ、約300000kg

問3 明治7年、小嶺村にあった小学校の全校生徒数は何名だったでしょうか?

  ア、28人  イ、58人   ウ、88人  エ、108人

問4 明治7年、小嶺村には「機柱」が12本ありました。

「機柱」は何に使われたのでしょうか?

   ア、機織りの糸をかける。     イ、各家庭に電気を配る。

  ウ、火事の見張りをする。     エ、電報を届ける。

問5 明治七年、小嶺村で売られた卵の値段は、現在の価値で1個いくら?

(現在は30円)

  ア、12円  イ、30円  ウ、60円  エ、120円

解答と解説

問1 明治七年、小嶺村には家が何件あったでしょうか?

   こたえ  「イ」:約40軒。

 戸数42戸。人口は206人(男97人、女107人)で、大部分の人が農業を営んでいました。

 商業や運送業に従事していた人もいたようですが、山がちで坂が多く、苦労が多かったようです。

問2 明治七年、小嶺村では、何キログラムのお米が取れたでしょうか?

   こたえ  「ウ」:約30000kg

 小嶺村の田畑の広さは十八町一段九畝十歩(約200ha)で、福岡ドーム12個分ありましたが、村の面積のわりには耕地は広くありません。これは、小嶺・八児地区が新しく開発された地域で、しばしば水害や干害に悩まされ、小石まじりの赤土や真砂土で稲作には適さない土質だったためと思われます。

それでも石高は189石四斗九升八合(約30000kg)あり、先祖の方々の努力の跡がうかがえます。

 米以外にも、麦・大豆・小豆・エンドウ豆・空豆・蕎麦・サツマイモ・茶・鶏卵・ハゼ(ロウソクの原料)などが生産されていました。

問3 明治七年、小嶺村にあった小学校の全校生徒数は何名でしょうか?

   こたえ   「ア」:28人

 明治六年のフランスを模範とする学制発布により、明治七年(1874)、小嶺小学が設立されました。(明治22年、明治の大合併により、上津役尋常小学校に統合)。生徒数28名の内訳は、男子25名・女子3名でした。当時の全国の小学校就学率は義務教育でありながら、50%以下だったらしく、役所は「学校に行くと金儲けがうまくなる」などと宣伝に努めたそうです。月謝も高く、学制反対の一揆が全国で起きました。小嶺・八児でも、多くの子供が学校に行かずに、家業を手伝わされていたことでしょう。

問4 明治7年、小嶺村には「機柱」が12本ありました。機柱は何に使われたの  

でしょうか?

   こたえ   「エ」:電報を届ける

 「機柱」とは、「電信柱=電柱」のことです。明治政府は東京-長崎間の電信線架設を急ぎ、明治6年2月14日には工事を完成させました。小嶺・八児の「機柱」はそのときに敷設されたと思われます。しかし、当時の人々は無知や恐怖から、電線に対して草鞋(わらじ)や馬沓(うまぐつ)を投げ掛けたり、電線を切ったりする者が後を絶ちませんでした。政府は厳しい取締りを通達し、各村町で組合を作って昼夜の別なく見回りをさせたりしたそうです。

 ちなみに東京-長崎間の電報料は、1通20文字以内で47銭(現在の約1万円)とたいへん高価だったので一般人とは無縁なものでしたが、神風連の乱や西南戦争では大活躍し、政府軍が西郷軍に勝利できたのは電信のおかげであるとする学者さんもいます。

 

問5 明治七年、小嶺村で売られた卵の値段は、現在の価値で1個いくら?

(現在のスーパーでは、卵は1個30円ぐらいです)

   こたえ   「エ」:120円

江戸時代後期、福岡藩黒田氏が藩の財源確保のために、庶民や下級武士に鶏を飼うことを推奨し、特産品「筑前卵」として、鶏卵を江戸や大阪へ輸出するようになりました。

明治七年、小嶺村では、鶏卵1500個が9円(現在の18万円)で売られていますので、1個あたり120円となります。ただし、これは生産者価格。大坂や江戸では1個400円で売られていました。卵は高級品だったんですね。

 ちなみに当時の卵料理は、「卵ふわふわ(ふわゝ玉子)」「あわ雪玉子」「玉子吸物」「落玉子の吸物」「大平・椎茸や豆腐の玉子かけ」「茶わん・玉子すり(茶碗蒸し)」「玉子厚焼」「丼・猪口しょう油・生玉子(卵かけご飯)」などがありました。

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