文永の役における元の戦艦900隻について

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 文永11年に日本に攻めてきた元軍の艦船や兵数はどのくらいだったのだろうか。これまでの研究では、『高麗史』の「戦艦900余艘」に依拠して、900艘・4万人弱とされてきた。だが、戦記の常として兵力が誇張されている可能性もあり、この数字を鵜呑みにすることはできない。

 そこで、『元史』日本伝の「以千料舟・抜都魯軽疾舟・汲水小舟、各三百共九百艘載士卒一万五千」の記述を手がかりに元軍の実際の規模を推定してみよう。

兵員輸送船は300隻  千料舟・抜都魯・汲水小舟  

 「抜都魯(バートル)」は勇敢に突き進む上陸用舟艇で、長さ6.7m、幅1.1m程度、10名以上の兵が乗船し、ほぼ同数の水手(かこ)が漕いで陸上に運んだ。「汲水小舟」は文字通り水を汲み用のボート(端艇)のことである。
 バートル舟も水汲みボートも自力で外洋を漕ぐことはなく、「千料舟」つまり大型の母艦に搭載されていて、接岸上陸時のみ水夫が乗って兵士を揚陸したり水を汲んだりした。だから九百艘の舟といった場合、出港から戦場までの外洋で、帆走したり水夫が漕いだりして兵士を運んだ船は300艘で、残りの600艘は大船に搭載された付属船である。

これまでの研究は、船の数を3倍にカウントしていたのである。

300隻もいなかった千料舟(兵員輸送船) ー 元軍兵士は9000人以下 ー 

 さらに『高麗史』忠烈王6年(1280)11月に「過ぎた年の東征(文永の役のこと)に、大船126艘に相当する人数の船頭と水夫を要求されたが、それを果たすことはできなかった。いま300艘分の人数を求められているが、そのような過大な要求にこたえられるはずがなかろう」という記述がある。水夫がいなければ舟は出せない。この記述に従えば、文永の役で日本に赴いた高麗兵船は126艘以下だったことになるが、計算しやすく150艘としよう。

千料舟(大型船)1隻あたりの兵員・乗員数と揚陸能力

 中島楽章氏の研究では、『宋会要輯稿』に記された舟の寸法から、海鶻船(かいおうせん)1千料(鷹島沖沈没船のような大型のもので、長さ30mくらい)は戦士108人・水夫42人が載るが、モンゴル軍は騎馬が必須なので、その分兵員は減る。
仮に1艘当たり、馬が15頭・兵士60名・船頭水夫50名とすれば、大船150艘で、馬2250頭・兵士9000人・水夫7500人である。水夫は死傷すると舟が動かなくなるので戦闘に参加することはない。よって、文永の役の元軍の戦士は9000人以下となる。
 しかも、バートル船の戦士の定員は10名程度と思われるので、全ての兵が上陸するためには6往復しなければならず、1回の上陸兵力は1500名、攻撃が百道・博多・箱崎に分散すれば、上陸兵力は各500名程度である。

 博多湾は遠浅だから、母船から上陸できる地点にはかなりの距離がある。母船からバートル船に兵士が乗り移るのにも時間がかかる。第1派を上陸させてから母船に戻り、第2陣を乗せて第2派を上陸させ援軍をとするには数時間を要したであろう。菊池勢や白石勢が百騎程度(1騎に付き郎党が2~4名付くので、兵力は300人程)で元軍に勝利できたのは、この間隙に乗じたからであろう。
潮の干満や気候も考慮すれば、モンゴル軍が1日で全兵力を上陸させることは難しかったに違いない。当然撤退も同様である。 

 
 上陸の翌朝、神軍を恐れた元軍が忽然と消えていたとする『八幡愚童訓』の記述は、八幡神の神威を顕揚し、武士の威力を貶めるためのプロパガンダであり、合理性に乏しい表現と言わざるを得ない。

※『蒙古襲来と神風』(服部英雄)を抜粋要約して少し加筆しました

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