【はじめに】
ひと昔前(ふた昔前か)の郷土の先輩方の麻生氏研究を読むと、鎌倉時代の山鹿(麻生)氏について、次のような記事に出くわします。
ア、平家滅亡後に山鹿兵藤次秀遠跡を与えられた一品房昌寛の所領を、養子の宇都宮家政が引き継ぎ、遠賀郡を中心に三千町(後世の六万石)を支配した。
イ、宇都宮家政の子孫は居所の山鹿を姓とし、得宗被官として惣領家の山鹿氏が地頭、庶家の麻生氏が地頭代として遠賀川流域の交通をも支配した。
ウ、麻生氏が居城とした花尾城は、建久5年(1194)、麻生氏の祖宇都宮重業によって築城された。
エ、山鹿(麻生)氏は、文永・弘安の役いわゆる「元寇」において活躍し、資氏・政氏の感状・軍忠状が伝わっている。また、領地と領民を守るために黒崎に防塁を築いた。
オ、総じて鎌倉期の山鹿(麻生)氏の活動は低調であるが、南北朝期の動乱において宗家の山鹿氏は没落し、かわって庶家の麻生氏は発展を遂げる。
もとより郷土史は郷土を顕彰し、人々のアイデンティティーを高揚するのを大きな目的としていますので、これらの知見が尊重さるべきものであることは間違いありません。
しかし、最近の研究成果を踏まえますと、やはり改めなければと思う事項もあります。
今回のレポートでは、上記のようないわゆるローカルな通説を、可能な限り(私の力ではわずかですが)鎌倉時代の最近の研究成果を踏まえ敬意をもって批判していこうと思います。
1.「ア」への批判 「中世の荘園はパッチワーク、近世大名のように一円支配はできません」
ア、平家滅亡後に➀山鹿兵藤次秀遠跡を与えられた一品房昌寛の所領を、養子の宇都宮家政が引き継ぎ、旧遠賀郡を中心に②三千町(後世の六万石)を支配した。 |
《写真は京都市岡崎の成勝寺跡の碑》

一品房昌寛は源頼朝の「御祈師」、いわば宗教的側近(いわゆる「拝み屋さん」ではなく、義経の弁慶や義仲の大夫坊覚明のように文筆や公家や宗教勢力との渉外を担ったていた)で、有力な文士(武士ではない御家人)です。『麻生系図』や『尊卑分脈』には、母方の縁者の宇都宮氏の猶子になったとか実父は高階氏だったとかの註記がありますが、確実なことはわかりません。平泉藤原氏追討の宣旨要請や東大寺再建など、頼朝と後白河法皇との京都での政治的交渉に活躍していますし、京武者の宇都宮氏も中流公家の高階氏も京、都に強固な地盤を持っていましたから、京都の下級官人出身と考えるのが常識的でしょう。また、崇徳院の御願寺である六勝寺の一つ「成勝寺」とも関係があったらしく、平家滅亡直後からは「成勝寺執行昌寛」という名で記録されています。

ちなみに私は、「一品房」の名乗りから一本(品)御所の職員だったことがあるのではないかと思っています。一本御所は天下で書かれた貴重な本を1本筆写して保存する、今の国会図書館に当たる役所で、御所の隣にありました。後白河上皇が平治の乱で頼朝の父義朝に幽閉された場所でもあります。とすれば昌寛はたいへんな能筆で秀才だったことになりますし、13歳で初陣の頼朝や後白河とここで出会った可能性さえ出てきます。
プライベートでも、鎌倉・京都の頼朝の家族の邸宅の造作を命じられたり、頼朝の隠し子の後見となるよう依頼されたりしたほか(政子の嫉妬を恐れて断りましたが)、娘が二代将軍頼家の側室になるなど、頼朝からの信頼はとくに厚かったようです。
文士だけに勇ましいエピソードはありませんが、『吾妻鏡』には「芦屋浦合戦」や「奥州合戦」に従軍した記録が残っています。おそらく軍師か軍奉行として戦闘の補佐・記録・戦功評価などを主務としていたのでしょう(鎌倉には剛勇の士はいくらでもいましたが、文章が書ける人はほとんどいませんでした)。
その昌寛が平家与党の山鹿兵藤次秀遠跡を与えられたのは奇異なことではありません。芦屋浦合戦に従軍していますから、遠賀川沿いに土地勘がありますし、入部以前から鞍手郡粥田庄の本家成勝寺にも関係があったようですから、うってつけの人事といっていいでしょう。

気をつけなければならないのは、山鹿兵藤次秀遠跡の遠賀郡全部と鞍手郡・穂波郡を与えられたといっても、江戸時代のようにそれらの郡の収入(正確には生産高)の全て(六万石)を与えられた(一円支配した)わけではないということです。当時の郡や荘園にはパッチワークのように複数の荘官・地頭、領家・本家がいて、現場責任者(荘官・地頭)は自分の領主(領家・本家)に年貢を納め、その手数料(地頭得分)を得ていました。
年貢は全収量の1/4、地頭の得分が5~6%(領主との契約により変動します)に過ぎませんでした。ちなみに年貢の運送費(北部九州では年貢の半分ぐらい)は領主持ちです。
地頭にとって最もコスパがいいのは「新補率法(10町ごとに1町を自分のものに、つまり全収入の9%を得られる)」を認められた土地で承久の乱以後に西日本に導入されましたが、認定条件が厳しく数は少なかったようで、ほとんどの地頭は今まで通りの収入(5~6%)の本補地頭でした。
遠賀郡には山鹿秀遠の一族と伝わる香月氏や開田氏、武蔵国の有力豪族野本氏(越中氏)が地頭職を得ておりますし、文献に残らなかった地頭もいたと思われますので、一品房昌寛の領地は言うほど広くありません(せいぜい鞍手郡の粥田庄と山鹿庄ぐらいか)。実態としては「遠賀川流域を支配」というより、「遠賀川流域の地頭たちを監督」する惣地頭に近かったと思われます。
それに6万石という数字は、近世の平均収量「1反当たり2石→3000町では6万石」から計算されたものと思われますが、遠賀郡は品種改良が進んだ幕末の時期でさえ「1反=1.5石」程度しか米が取れないやせた土壌でしたから昌寛の収入はさらに目減りします。
ただ当時の慣習として、海・山・河などの産品の半分ぐらいは地頭の収益にできたようですので、昌寛の後を嗣いだとされる山鹿家政は、所領の位置が遠賀川と九州北岸航路の結節点という地の利を生かして、海産物・塩・流通などに主な収入を求めていったことでしょう。
2.「イ」への批判 山鹿家政を宇都宮氏と言っていいかは少し怪しい。山鹿氏が地頭で麻生氏がその地頭代であるとする説は大いに怪しい。
《写真は山鹿城》

山鹿(麻生)氏の系図で最も信頼できるとされている『尊卑分脈』では、山鹿氏は宇都宮氏の枝の氏族として記載されています。宇都宮系山鹿氏と呼ばれる所以ですが、これはいささか怪しい。というのも宇都宮氏とのつながりは「家政の養父昌寛の母方が宇都宮氏の縁者で、その関係で猶子となった」と註記されているにすぎないからです。
養子であれば「家を継いだ」と主張することもできますが、猶子では「親分子分の杯を交わして後ろ盾を得た」としかなりません(例外が多い話ではありますが)。『尊卑分脈』の成立は南北朝・室町期ですから、宇都宮ブランドに憧れた山鹿(麻生)氏の自己申告が反映した結果とも考えられます。
豊前守護の宇都宮氏が彦山川に沿って遠賀川流域に進出したとする説(浅野真一郎『高円史学8』)もありますが、同じ宇都宮氏でも山鹿(麻生)氏は藤原系、豊前宇都宮氏は中原系で別の氏族かもしれず、はっきりしません。
ちなみに私は、『粥田庄々務頼順注進状案』に文治年間の昌寛の眼代として出てくる「山鹿左衛門尉家長」は「山鹿家政」ではないかと考えています。なぜなら、通字から「家長」は山鹿兵藤次秀遠の一族とは思えず、また「家長」の「長」は「まさ」とも読めるからです(広漢和辞典下P1047「長」名乗の項)。
そうであれば、山鹿家政は成勝寺とつながりがある昌寛とともに粥田庄に下向して眼代を務めた可能性を指摘できるのですが、残念ながら広漢和の当該項には用例が付されておらず、根拠とするには不十分です。

しかし、次の「山鹿氏は地頭、麻生氏は地頭代」とする『増補改訂芦屋町誌(平成3年)』の主張には反対できます。
なぜなら「麻生文書1号」」の「麻生庄・上津役郷・野面庄地頭代職安堵状」には北条時頼の袖判が添えてあります。もし山鹿氏が地頭であれば、そこに山鹿某の花押があるはずです。
あまりにも単純で私が間違っているかもしれないと思い、一昨年、芦屋町に問い合わせのメールを送りましたがまだ返信がありません。どなたか『芦屋町誌』の論理の筋道を教えていただけないでしょうか。
《麻生文書1号 北条時頼安堵状下文》
(増補改訂芦屋町誌P144から抜粋) 「…建長元年(一二四九)北条時頼が麻生資時に与えた下文(第三編第一章参照)には麻生庄他の地頭職代(ママ「麻生文書」は地頭代職)を命ず、とあって地頭職ではない。当時地頭職は山鹿氏だったから、と考えられる。…」 |
※「麻生文書」の文書番号は、「麻生文書(北九州市立歴史博物館)」のものを用いた。
3,「ウ」への批判 鎌倉時代に、山城は存在しない
ウ、麻生氏が居城とした花尾城は、建久5年(1194)、麻生氏の祖宇都宮重業によって築城された。 |

『筑前国続風土記』に記されたこの一条は、花尾城築城800年記念碑にも採用され、八幡の郷土史を学ぶ者にとっては基礎中の基礎となっています。
ですが、これは史実なのでしょうか。花尾城築城800年記念誌「花尾」掲載の有川宣博氏の特別寄稿の一文を紹介します。
《左は花尾城案内板の写真》
「…花尾城築城八百年記念とはいいながら、その根拠とするところには二重三重にも虚構が横たわっており、築城八百年は史実として問題がある。花尾城=麻生氏、麻生氏=宇都宮氏、さらに宇都宮氏の遠賀地方(芦屋町山鹿)入部。これだけの連鎖方程式がすべて確認されたとしても、八百年前に花尾城が麻生氏によって築城されたことにはならない…」
上記の連鎖方程式は今でも確認されていませんが、私のような素人でも、学生の頃の知識だけでこの伝承の誤りに気づきます。
《学生の頃の知識》
鎌倉時代の「城」(〈しろ〉ではなく〈じょう〉と訓む)は、堀と土塁に囲まれた豪族の館のことをさし、平地もしくは台地の平坦地に築造されるが、道路に臨時の柵やバリケードを置いただけの防御施設を「城(じょう)」と呼ぶこともある。
山城が登場するのは南北朝期、それも防御施設は逆茂木や柵がせいぜいで、戦時の臨時避難所としての性格が強い。土塁や切岸を備え、山上に領主の屋敷や兵の根小屋を構えた城は戦国期以降で、畝状竪堀や石垣、天守のある城は戦国末期のものである。
したがって、建久5年に宇都宮重業が花尾山に城を築くはずはなく、そもそも「尊卑分脈」の宇都宮系図に「重業」なる人物は存在しません。

山城としては、南北朝初期の延文元年(1356)に鎮西管領一色氏と麻生宗光・山鹿家直・氏久らが、「麻生山」に陣を敷いて菊池武光を迎え撃ったことが「麻生文書」に見えます。「麻生山は花尾山である」とする著作もありますが、竹中岩夫氏らによる八幡郷土史会内での論戦のすえ、麻生山は現在の九州国際大学付属高校付近の小山とされました。 【写真左の住宅地の丘が麻生山だったらしい】

3年間の籠城(実際は1ヶ月程のようですが)と伝わる文明9年(1477)から、大内義隆が滅亡し相良武任が陶晴賢に攻められて自刃した天文20年(1551)まで、花尾城が大内氏の城だったのは確実ですから、「麻生の城=花尾城」とするのは無理があります(この間の麻生氏の在城は、大内氏の城将としてのものだったようです)。
《花尾城遠景》
4.「エ」への批判 文永・弘安の役で麻生氏が活躍したと伝えるのは、江戸・明治の系図だけ。また、黒崎に防塁は築造されていない(と思う)。
エ、①文永・弘安の役いわゆる「元寇」において活躍し、資氏・政氏に感状・軍忠状が伝わっている。さらに、領地と領民を守るために、②黒崎に防塁を築いた。 |
多くの一次資料を残している「麻生文書」の中に、元寇での山鹿(麻生)氏の活動を記した文書はほぼありません。わずかに16世紀に成立した「143号竪系図」の資氏の註記に、
「蒙古の首を捕り、芸州小早川同意云々。家督御判文永元の儀也。御代々の御判物御内書腰文、流文、感状、軍忠書き出しあり」とありますが感状・軍忠状は現存せず真偽は不明です。
やや詳しいのは「144号一代系図」の麻生資時の項に
「弘安四年(1281)蒙古国九州に責め来たる。天然の暴風発り、蒙古の船覆る。軍勢、船に乗り込み、敵の数首を討ちとる。比類なき手柄なり。皇、ご満悦す。皇、本朝の神祇を天拝し、御心は御備えを願い、御鉾を賞と為して資時、資氏に下し賜る」とあります。しかし「144号一代系図(前記竪系図に後世、各人の履歴を書き加えたもの)」は江戸時代以降に成立した系図なので信頼できるものではありませんし、資時の没年は文永9年(1272)ですでに確定していますので(麻生文書)、この記事がフィクションまたはミスであるのは明らかです。

元寇防塁(当時は石築地といいました)は、文永の役の2年後(建治2年1276)に幕府から、大宰府防衛のために石築地役が出され急造されました。
担当する場所・長さ・構造・備品までノルマ化されており(鎌倉幕府追加法)、山鹿氏は筑前衆として博多の沖ノ浜か長浜を担当しなければならなかったと考えられます。
さらに元寇防塁の場所はほぼ文永の役の上陸地点だった砂浜に限られています。黒崎のように水深が浅く湿地だらけで元軍の上陸が困難な場所にわざわざ防塁を築く理由がありません。
出雲大社の古文書(千家文書5康永2年3月16日付出雲国造孝景文書和与目録)に、「黒崎うけとり」・「長門石築地請取」とあるところから、「筑前国黒崎の海岸に防塁が築かれ、石見国の御家人が筑前国北岸に在番した」とする説もあります。
しかし、黒崎の「黒」は陸地、「崎」は陸地が海や湖に突き出た所あるいは山が平野に突き出た所の意味で、全国的に見られる地名ですから、かつては関門地区にも黒崎があり、そこで石を受けとったという意味かもしれません(千家文書には筑前とは書かれていません)。

さらにいえば、元寇防塁の石は、博多では各国担当地区のすぐ近くで採石されていますから、長門の石築地に積む石をわざわざ筑前黒崎から運ぶというのも違和感があります。
以上の理由から、私は黒崎に元寇防塁が築かれたことはなかったと考えています。《写真は下関ゴルフ倶楽部内の防塁跡》
長くなりすぎてスミマセン、次回は中編として、「家格と海」という視点で、鎌倉期の山鹿(麻生)氏がどういう人々であったのか、そしてその盛衰についてまとめます
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