2 芦屋浦

村別 福岡県地理全誌

福岡県地理全誌巻之三十九(第五大区)遠賀郡之一

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芦屋浦概説

(西南)福岡県庁、道程十二里三町。(東、若松五里。長門国赤間関十里。西南、粕屋郡藍島十四里。西、宗像郡地島五里。同郡大島七里。)
彊域 東、山鹿魚町(七町)。西、芦屋村(十九町)。芦屋町(六町余)。西北、海に接し、人家一所(西町、東北より西南、長一町三十九間。上町、間四十間、浦町、間四十九間。下町、東南より西北四十九間。すべて百十六戸。)
よって、東西一町五十間、南北一町三間あり。この浦、嘉禎の頃より世に顕る。流石は芦屋町の今浦という所、元浦にて、垂間野橋は即ち元浦内に架して、諸国に往来し、津々浦々に航海する湊なりしが、何となく海浜の様も変わり、人家も多くなりゆくまま、今の地に移れり。されば、渡海は是よりしけるにや、明和の頃までは川に傍たる所を、渡海町と云えり。今は濱崎と称す。田圃なし。行舟漁業を専らとす。漁家八十七戸。網数、二十二張(鯛網二張。鰮《※いわし》網三張。鰶《※このしろ》十七張)。漁場は東洲口より西中濱まで。一里三十四町(この内三十町波津村催合《※もやい:共同》)。土産、海魚。

戸口・租税・船舶・港湾等

○戸口
一 戸数 百二十一戸
      内
  一 士族   一戸
  一 平民 百二十戸
  
一 口数 五百六口
      内
  一 男 二百四十七口
  一 女 二百五十九口

(職分)筆学(男一人)、工(男一人)、商(男十六人・女十一人)、雑業(男百五十一人・女百五人)、雇人(男三人・女八人)

○租税
一 金四円四十六銭二厘       雜税

○船舶
一 大小船 十九隻
     内
  一 商船 十一隻(五十石積以上三隻 百石積以上八隻)
  一 川艜  七隻
  一 小漁船 一隻

○港湾
   芦屋湊
浦の西北にあり。山鹿浦と相対して、一港なり。東西長、旧千光院下より濱崎人家外まで十町。
 南北幅、船頭町裏より山鹿権現堂鼻まで二町四十五間。満潮一丈八尺、退潮一丈、洲口はやや浅し(平潮九尺・満潮一丈三尺)。
 金屋町渡場の左右三,四十間の際を繋船の所とす。
 洲口の西北に波止場あり。石垣。東西長六十間、横築留三間半。此所、毎年冬に至りて西北の風烈しき時は、海中の白沙を打ち上げて洲口を吹き埋め、年を逐い浅くなりて、船の碇泊なりがたき故、津中の生業乏しく、零落日に甚だし。
 これに依りて延享二年乙丑、この町の富商俵屋某、私財を用いて新たにこの波止を築いて、暫くはこの患いも少なかりしが、幾程なくまた荒波に打ち崩され、久しく修造する人もなかりしに,その後、かの古波止を根石として、再び石垣を築きて堤上に松を植え、風浪を防ぐ謀をなせり。
 おおよそ当国の内、宗像・遠賀二郡は国の東北裔にある地なれば、西北の風強くして、田畠人家を埋むるにより、冬は海畔に垣を構えて是を避く。然れども、この地の如く、その患いの甚だしきは、いまだあらず。石垣を増築して風浪を防がんと欲すれども、資財乏しくして長嘆するのみと土人云えり。

○暗礁
  高山瀬
浦の西北二十五町海底にあり。南北一里余、東西十二,三間より三四間あり。常に隠れて見えず。此所の深さ、浅き所にて、平潮五丈五尺、満潮六丈五尺。

  黒瀬
浦の西北六町、海底にあり。長十間、幅七間。見えず。

神社・古蹟

○神社
  (村社)岡湊神社
芦屋町にあり。
  恵比寿神社(本殿は横二間入一間二尺、渡殿は横一間半入二間、拝殿は横三間入二間、石鳥居一基。社地は横十五間入二十間)
濱嵜にあり。祭神 事代主命。祭日 六月二十日、海辺に神幸あり。濱嵜の漁家、是を勤む。高倉神社神田記に、「芦屋夷毎月朔弊三殿惣命婦とあり。この社なり」と云う。末社四、白峰神社、稲荷神社、大国主神社、綿積神社(共に社地)。

○小社一所
速瀬神社(濱嵜にあり。石祠なり。速秋津姫・瀬織津姫命を祭る。この祠、明治七年六月の一夜間に三尺許測に倒れたり。されども、少しも破壌せず。そのころ浦内に漁魚少なく、また種々奇異の事ありければ、恐れてその由を卜するに、汚穢の事ありて、神の祟りあるなりと云う。因りて探索せしに、近来古き位牌を多く社側の海浜に捨てたり。その故なるべしとて、不浄の物取り除け、七月に祠を改めて建つと云う)

○古蹟
垂間野橋址
芦屋と山鹿との間の舟渡場より一町ばかり西にあり。今も土俗に橋本と云う。此所、古え東西に渡せし橋あり。太宰府より博多に出で、香椎潟・箕生浦・在自潟・名児山・垂水越・鶉濱・岡松原を経て此所へ来る官道に架せり。この辺を田熊と云う。その南の野を田熊野と云う(垂間・田熊、音近ければ、誤りしなるべし)。横町を垂間野橋筋と云う。横町上にある寺なれば金台寺を垂間道場と云う。浦の方の地名を、橋より先と称す。これ皆昔の名残なり。

※「懐中抄=古今集素伝懐中抄」 鎌倉時代中期の文永年間頃成立した古今集の注釈書。
(懐中抄)島づたい 戸わたる舟の 梶間より おつるしずくや 垂間野の橋

島伝い戸渡る船と読みし歌の詞、此所によくかなえり。
(貝原篤信云く「島伝い」とは、志賀島・安部島・大島・勝島・地島など、つたい来たりて迫戸を渡れるなるべし。「戸」は「迫戸」にて、この入海、即ち迫戸なり。また、「島づたい」を「島かくし」と書きし本あり。山鹿の方は島なれば、この迫戸に入れば島にかくるる故、よめるなり)
古は橋長くしてその下を大船通いしと云う。今も川幅百二十五間あり。舟を以て人を渡す。

人物・物産

○人物
   孝子一人
芦屋浦庄吉。米若干を与えて賞せらる。(筑紫遺愛集)

○附記
   物産
一 鯛  四千尾   輸出
      此代金百八円

一 鰯  四千八百籠
      此代金六百円

一 鰶  五万尾
      此代金二百二十五円

一 鯵鯖 二万三千四百尾
此代金百五十二円十銭

 総計金千八十五円十銭

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