鎌倉記事

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山鹿(麻生)資時  ー ある得宗被官の人生 ー 

「麻生荘・上津役郷・野面庄」の地頭代職を若くして相続した山鹿(麻生)資時だったが、その人生は飢饉と疫病の連続だった。また、水運を生業とするがゆえに、モンゴル帝国の風波に直面し、さらには、北条得宗家による権力の独占と戦時体制の構築は、「二月騒動」となって資時の命を奪っていく。
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山鹿資氏およびその子孫たちにとっての元寇    

父「資時」の急死の後を受けて、北条氏から家督安堵された少年「資氏」。だが、その前途には国難「元寇」が待っていた。
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試論 宇都宮系山鹿家政は宇都宮氏か?                                                     

宇都宮系山鹿氏の祖「家政」は、はたして宇都宮氏なのか?どういう経緯で九州にやってきたのか。「尊卑分脈」「麻生文書」等から考察します。
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1-10.『麻生文書』第3号の時代

「北条時宗」が執権に就任した。得宗家に対抗する一門の「名越時章」が鎌倉で、異母兄の北条時輔が京都で粛清された。北条氏の被官である筑前国山鹿氏は、この騒動でどのような影響を受けたのだろうか。合わせて山鹿資時の一生を振り返る。
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1-9.『麻生文書』第2号の時代

「麻生文書2号」が書かれた文永元年、鎌倉幕府は前執権北条時頼と現執権長時のあいつぐ死去による混乱があった。気候の寒冷化による連年の飢饉は、全国的な人口減少と深刻な社会不安をもたらした。かかる時代に、筑前国遠賀郡の得宗被官「沙弥西教(山鹿資時)」の近辺はどのような状況にあったのだろうか。
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1-1. プロローグ 壇ノ浦

北九州の中世の状況や景観を、『麻生文書』や先学の中世史研究、郷土史研究を参考にしながら想像してみたいと思います。遅くなるかも知れませんが、可能な限り出典を明らかにしたいと思っています。元寇、黒瀬氏、小金原合戦なども取り扱う予定です
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1-2. 随筆 芦屋浦の戦い                  

1185年2月、源範頼は筑前国芦屋浦において原田氏を打ち破り彦島の平家を孤立させた。誰も疑わなかったこの合戦を、2015年、豊前国中津近辺で行われたとする新説が登場した。この説を検証し、北九州地方への影響を考える。
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1-7. 園田城・園田浦城 ―中世の海退― 

北九州市八幡西区の永犬丸地区に、園田城と園田浦城という隣接する2つの小城がある。その距離約200m。陣城とするには近すぎるし、ひとつの城の郭とすると巨大すぎる城郭になってしまう。この矛盾を解く鍵は「中世の海退現象」である。
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「降参します、命ばかりは……それだけ?」- 平家滅亡後の北九州の状況 -    

平家滅亡後、原田・板井・山鹿など有力な平家与党は厳しく処断された。しかし、その後の領地の様子を見ると、どの氏族も大きく減ってはいるものの絶滅はしていない。これは、南北朝から始まるとされる「降参半分の法」の萌芽ではないか。あわせて、関東下り衆の特徴についても述べる。
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1-4.随筆 一品房昌寛   

源頼朝の側近「一品房昌寛」は、平家滅亡後、山鹿兵藤次秀遠跡を管理することになった。しかし、朝廷との折衝・東大寺再建等、あまりの多忙ゆえに宇都宮系山鹿家政に所領を譲ったと伝わる。薄幸の娘と孫に昌寛が残したものは…。
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1-6.アンケート版 鎌倉時代の山鹿氏の不振 

 一品房昌寛から譲られた所領を加え、芦屋津・江川・洞海湾をおさえた宇都宮系山鹿氏。しかし、隣の垣崎庄に幕府有数の有力御家人「野本氏」が入部してきた。幕府体制内で得宗と親しい野本氏と対立することは困難である。山鹿氏の苦難の日々が始まる。
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1-8.『麻生文書』1号の時代      

建長元年(1249)、筑前山鹿氏の資時が、父資家からの所領を安堵されたとき、主の北条得宗家は宿敵三浦氏に勝利し第5代執権時頼の権力は盤石に見えた。だが京都は灰燼に帰し、時頼の政治改革は世を混乱に導く可能性があった。
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