河島直樹

村別 福岡県地理全誌

3 蘆屋村

福岡県地理全誌の遠賀郡「芦屋村」の部分を、「福岡県史」の影印版より、大きく読みやすく転写しました。資料としての提示ですので、できるだけ現代語訳しませんでした。ただ、筆者も分からずに調べたところは、私の備忘録でもありますので、注を付けさせていただきました。
村別 福岡県地理全誌

2 芦屋浦

「芦屋町」に続いて、「芦屋湊」です。この項は、港町らしく暗礁・船舶・漁獲高などが記録されています。遠賀川に架かる「垂間野橋」の記述も貴重です。
鎌倉記事

試論 宇都宮系山鹿家政は宇都宮氏か?                                                     

宇都宮系山鹿氏の祖「家政」は、はたして宇都宮氏なのか?どういう経緯で九州にやってきたのか。「尊卑分脈」「麻生文書」等から考察します。
村別 福岡県地理全誌

1.芦屋町  

明治六~七年、陸軍省からの指示で福岡県(筑前)が調査した各村のデータをまとめた『福岡県地理全誌』(福岡県史影印判)を読みやすく活字化しました。今後もボチボチUPしていきます。
村別 福岡県地理全誌

小嶺村(遠賀郡) 福岡県地理全誌巻之三十九  

鎌倉時代の麻生氏 八幡郷土史会アーカイブ TOPICS 私と友達のパンフ 福岡県地理全誌 健康ウオーク(歴史) 51.小嶺村 八幡西区小嶺1―3丁目・小...
遠賀郡 福岡県地理全誌

福岡県地理全誌(遠賀郡)

福岡県史所収の『福岡県地理全誌』が、縮小影印本なので字が小さく、老眼の私には読みづらいので、思い切って活字化してみました。1村ずつノロノロUPしていこうと思います。
TOPICS記事

Topics 5-8 花尾山城の「井戸」の類例? -村上城との比較-                           

北九州市には、国指定レベルでありながら、どこの指定も受けていない城が3つ(小倉城・長野城・花尾城)ある。この中の花尾城の「井戸」は全国的に類例がなく用途不明とされてきた。その価値を新潟県の国指定遺跡村上城と比較し、花尾城の保存整備について考える。
TOPICS記事

TOPICS 5-7 中世の米1石はいくら?           ーレファレンス事例詳細(蒲郡市立図書館)をスタートにー

米1石の値段を現代の貨幣価値に換算するのは想像以上に難しい。この問題に答えを出してくれる先生方が最近現れるようになった。しかし、文献が豊富な江戸後期に研究が集中し、中世にはまだ光が当たっていない。そんな難問に挑戦した悪戦苦闘の記録である。
鎌倉記事

1-10.『麻生文書』第3号の時代

「北条時宗」が執権に就任した。得宗家に対抗する一門の「名越時章」が鎌倉で、異母兄の北条時輔が京都で粛清された。北条氏の被官である筑前国山鹿氏は、この騒動でどのような影響を受けたのだろうか。合わせて山鹿資時の一生を振り返る。
TOPICS記事

5-4 小金原合戦の基礎史料現代語訳            ー 「筑前国続風土記」と関係一次史料 ー         

天正9年(1581)11月13日、餓死寸前の鷹取城に兵粮を届けた戸次勢の帰路を不気味に追尾する西郷衆。打ち込まれた一弾に遺恨が爆発する。杉、秋月の思惑に翻弄される宗像氏貞。貝原益軒の名文「小金原」を忠実に現代語訳する。
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5-2 黒瀬氏レポート2 -「安芸国・筑前国における黒瀬氏の活動」-

福岡県糟屋郡に深い関わりを持つ「黒瀬氏」のルーツと活動を、戦国時代の広島県、山口県、福岡県の史料を使って明らかにします。
TOPICS記事

5-1 黒瀬氏レポート1                                            ー「筑前国町村書上帳」にみえる「黒瀬」氏ー

江戸時代に編纂された「筑前国町村書上帳」には、糟屋郡大隈村医師黒瀬氏が所蔵した文書が十二通掲載されている。時代順に並び替えて、黒瀬氏がどのような活動をしていたか読み取ってみたい。そして、粕屋郡の「黒瀬」さんはどこから来たのか、なぜ来たのか。本稿はその問いにこたえようとするものである。
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1-9.『麻生文書』第2号の時代

「麻生文書2号」が書かれた文永元年、鎌倉幕府は前執権北条時頼と現執権長時のあいつぐ死去による混乱があった。気候の寒冷化による連年の飢饉は、全国的な人口減少と深刻な社会不安をもたらした。かかる時代に、筑前国遠賀郡の得宗被官「沙弥西教(山鹿資時)」の近辺はどのような状況にあったのだろうか。
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1-1. プロローグ 壇ノ浦

北九州の中世の状況や景観を、『麻生文書』や先学の中世史研究、郷土史研究を参考にしながら想像してみたいと思います。遅くなるかも知れませんが、可能な限り出典を明らかにしたいと思っています。元寇、黒瀬氏、小金原合戦なども取り扱う予定です
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1-2. 随筆 芦屋浦の戦い                  

1185年2月、源範頼は筑前国芦屋浦において原田氏を打ち破り彦島の平家を孤立させた。誰も疑わなかったこの合戦を、2015年、豊前国中津近辺で行われたとする新説が登場した。この説を検証し、北九州地方への影響を考える。
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1-7. 園田城・園田浦城 ―中世の海退― 

北九州市八幡西区の永犬丸地区に、園田城と園田浦城という隣接する2つの小城がある。その距離約200m。陣城とするには近すぎるし、ひとつの城の郭とすると巨大すぎる城郭になってしまう。この矛盾を解く鍵は「中世の海退現象」である。
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「降参します、命ばかりは……それだけ?」- 平家滅亡後の北九州の状況 -    

平家滅亡後、原田・板井・山鹿など有力な平家与党は厳しく処断された。しかし、その後の領地の様子を見ると、どの氏族も大きく減ってはいるものの絶滅はしていない。これは、南北朝から始まるとされる「降参半分の法」の萌芽ではないか。あわせて、関東下り衆の特徴についても述べる。
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1-4.随筆 一品房昌寛   

源頼朝の側近「一品房昌寛」は、平家滅亡後、山鹿兵藤次秀遠跡を管理することになった。しかし、朝廷との折衝・東大寺再建等、あまりの多忙ゆえに宇都宮系山鹿家政に所領を譲ったと伝わる。薄幸の娘と孫に昌寛が残したものは…。
鎌倉記事

1-6.アンケート版 鎌倉時代の山鹿氏の不振 

 一品房昌寛から譲られた所領を加え、芦屋津・江川・洞海湾をおさえた宇都宮系山鹿氏。しかし、隣の垣崎庄に幕府有数の有力御家人「野本氏」が入部してきた。幕府体制内で得宗と親しい野本氏と対立することは困難である。山鹿氏の苦難の日々が始まる。
鎌倉記事

1-8.『麻生文書』1号の時代      

建長元年(1249)、筑前山鹿氏の資時が、父資家からの所領を安堵されたとき、主の北条得宗家は宿敵三浦氏に勝利し第5代執権時頼の権力は盤石に見えた。だが京都は灰燼に帰し、時頼の政治改革は世を混乱に導く可能性があった。
鎌倉

1.国衆と歩く鎌倉時代の北九州

源範頼に九州をおさえられ孤立した平家は、源義経との壇ノ浦合戦に敗れ滅亡した。有力与党は処分され、関東から下向してきた鎌倉御家人がその跡を継ぐ。山鹿兵藤次秀遠跡に入部した、いわゆる宇都宮系山鹿氏の軌跡をたどる。
TOPICS記事

5-3.TOPICSレポート「元寇における山鹿・麻生氏の可能性」

山鹿・麻生氏の元寇の記録は皆無である。だが、当時の鎮西武士は元に対する防衛体制を構築するため、幕府から強力に統制されていた。得宗被官の山鹿・麻生氏は幕府の指導をなおざりにはできない。幕府の法令などから元寇における山鹿・麻生氏の行動を推理してみた。
TOPICS

5.topics 国衆と歩く中世の北九州

「麻生文書」を切り口に、中世の北九州の状況と景観を想像してみました。その他、筑前国に関するトピックスも思いつくままにUPしました。 基本的に最新研究を踏まえるように心懸けたのですが、通説さえない部分も多く、想像/憶測/妄想で乗り切ってます。
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