鎌倉記事 1-1. プロローグ 壇ノ浦 北九州の中世の状況や景観を、『麻生文書』や先学の中世史研究、郷土史研究を参考にしながら想像してみたいと思います。遅くなるかも知れませんが、可能な限り出典を明らかにしたいと思っています。元寇、黒瀬氏、小金原合戦なども取り扱う予定です 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 1-2. 随筆 芦屋浦の戦い 1185年2月、源範頼は筑前国芦屋浦において原田氏を打ち破り彦島の平家を孤立させた。誰も疑わなかったこの合戦を、2015年、豊前国中津近辺で行われたとする新説が登場した。この説を検証し、北九州地方への影響を考える。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 1-7. 園田城・園田浦城 ―中世の海退― 北九州市八幡西区の永犬丸地区に、園田城と園田浦城という隣接する2つの小城がある。その距離約200m。陣城とするには近すぎるし、ひとつの城の郭とすると巨大すぎる城郭になってしまう。この矛盾を解く鍵は「中世の海退現象」である。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 「降参します、命ばかりは……それだけ?」- 平家滅亡後の北九州の状況 - 平家滅亡後、原田・板井・山鹿など有力な平家与党は厳しく処断された。しかし、その後の領地の様子を見ると、どの氏族も大きく減ってはいるものの絶滅はしていない。これは、南北朝から始まるとされる「降参半分の法」の萌芽ではないか。あわせて、関東下り衆の特徴についても述べる。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 1-4.随筆 一品房昌寛 源頼朝の側近「一品房昌寛」は、平家滅亡後、山鹿兵藤次秀遠跡を管理することになった。しかし、朝廷との折衝・東大寺再建等、あまりの多忙ゆえに宇都宮系山鹿家政に所領を譲ったと伝わる。薄幸の娘と孫に昌寛が残したものは…。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 1-6.アンケート版 鎌倉時代の山鹿氏の不振 一品房昌寛から譲られた所領を加え、芦屋津・江川・洞海湾をおさえた宇都宮系山鹿氏。しかし、隣の垣崎庄に幕府有数の有力御家人「野本氏」が入部してきた。幕府体制内で得宗と親しい野本氏と対立することは困難である。山鹿氏の苦難の日々が始まる。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉記事 1-8.『麻生文書』1号の時代 建長元年(1249)、筑前山鹿氏の資時が、父資家からの所領を安堵されたとき、主の北条得宗家は宿敵三浦氏に勝利し第5代執権時頼の権力は盤石に見えた。だが京都は灰燼に帰し、時頼の政治改革は世を混乱に導く可能性があった。 2023.05.14 鎌倉記事
鎌倉 1.国衆と歩く鎌倉時代の北九州 源範頼に九州をおさえられ孤立した平家は、源義経との壇ノ浦合戦に敗れ滅亡した。有力与党は処分され、関東から下向してきた鎌倉御家人がその跡を継ぐ。山鹿兵藤次秀遠跡に入部した、いわゆる宇都宮系山鹿氏の軌跡をたどる。 2023.05.14 鎌倉
TOPICS記事 5-3.TOPICSレポート「元寇における山鹿・麻生氏の可能性」 山鹿・麻生氏の元寇の記録は皆無である。だが、当時の鎮西武士は元に対する防衛体制を構築するため、幕府から強力に統制されていた。得宗被官の山鹿・麻生氏は幕府の指導をなおざりにはできない。幕府の法令などから元寇における山鹿・麻生氏の行動を推理してみた。 2023.05.14 TOPICS記事
TOPICS 5.topics 国衆と歩く中世の北九州 「麻生文書」を切り口に、中世の北九州の状況と景観を想像してみました。その他、筑前国に関するトピックスも思いつくままにUPしました。 基本的に最新研究を踏まえるように心懸けたのですが、通説さえない部分も多く、想像/憶測/妄想で乗り切ってます。 2023.05.02 TOPICS